別府南無の会 タイトル

旗・幡(はた)

 原語は、サンスクリット語「パターカー」といいます。これを漢字にして音写すると、「波多迦(はたか)」となり、「幡(ばん)」と漢語に訳される。
仏さまや菩薩さまの威徳を示す荘厳具(お飾り)で、法会・説法などの際、寺の境内に立てたり、または本堂に飾ったりします。(金襴の織物でできていたり、金箔の施された木でできていたりします。私には、イカのようにも見えるのですが…とは失敬。)
 旗は中国では軍旗のことだったらしいのですが、日本では旗と幡との区別なく「はた」とよみますネ。

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名刹

 ご存知の通り、有名な寺院のことなのですが、この場合の「刹」は、サンスクリット語「ヤシュティ」を音写した字で、はた竿のこと。
インドや西域ではお堂の前に竿を立て、先端に宝珠火焔の形を付けて寺の印としたことから、転じて寺院を意味するようになったということです。
※「はた」は掲げるものですから、竿も必要です。また、法灯(ほうとう、のりのともしび、つまり仏の教え)も「掲げる」と言います。教えを説いたり広めたりすることと、「はた」には深い関係があるようです。

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ろれつ 呂律

 言葉の調子やものを言うときの調子をこういいます。「呂律(ろれつ)が回らない」といえば、酒酔いなどして言語がはっきりしないさまを指します。
 これは、仏教の声楽、声明(しょうみょう)や雅楽が関係します。音階に三種あり、それは、呂曲(りよ)と律(りつ)曲と中(ちゆう)曲と言います。この呂と律の音階の区別がうやむやになり、わからなくなることから、出てきたのではないかなぁと想像します。(声明を少しばかり勉強しましたが、私は耳で聞いてもこの三種を即答できません、もちろん酔っ払ってなんかいませんヨ。)
 この声明は、時代を経て、平曲(平家琵琶)・御詠歌・浄瑠璃・義太夫・長唄・音頭、はては演歌を生み出すことになります。日本音楽の源流といえるようです。

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けんちん汁

 辞書を調べると、【けんちん】は「建長」と「巻繊」と書いてあります。建長とは、神奈川県鎌倉の名刹、臨済宗建長寺派のご本山、建長寺のこと。
 建長寺の開山(鎌倉時代)、蘭渓道隆さまの弟子が豆腐を床に落してグチャグチャにしてしまって困っていると、蘭渓道隆さまが壊れた豆腐と野菜の皮やヘタを無駄にしないようにと作った料理が始まりだ、という説があります。
 ということで、お寺で生まれた「けんちん汁」は、当然、精進料理です。もう一方の「巻繊」も、普茶料理の巻繊(江戸時代に渡来した中華料理)だというから、仏教には深い関係があります。
蘭渓道隆さまは、中国から渡って来られ九州から京都、そして鎌倉へと移られていかれた方で、玖珠郡九重町の「龍門の瀧」・龍門寺にはご縁があるということです。
 大分県といえば、中津市に「けんちん」という蒸し菓子があります。けんちん汁と一体どんな関係があるのでしょうか?
 食欲の秋ですから、どうしても食べ物の話になりがちな拙僧は「食いしん坊」と呼ばれておりまする(笑)

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ずぼら

もともと「坊主」だったという説があります。  最近では、食べ物が「うまい」という時に「まいうー」と言う若い人たちがおりますが、それと同じように「ぼうず」が「ずぼう」と変化しました。そのころ(江戸時代)のお坊さんは、というと、戒律を守って清らかで厳格なはずだったのに、「すべきことをせず、だらしがない」つまり、修行を怠ったり、酒色に溺れたりするもの達が多くなったらしい。そんなお坊さんらを嘲笑して「ずぼうら」と呼んだ。それが、「ずぼら」になったとのことです。
 ただ、近世の上方方言「ずんぼらぼん」など、つるつる・のっぺりとした様子をあらわす言葉が語源だ、という説が有力なようです。
 まぁ、江戸時代のお坊さんが「ずぼら」なら、今のダメなお坊さんを現代風に【ズボラー】って呼びますか?

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演歌 えんか

 時は、明治初年、自由民権運動の高揚期、演説への取締りが厳しくなった。取締りからのがれるために、生み出したのが、歌の形で街頭演説する「演歌」。つまり演説の歌で、政治の風刺をしていたそうです。「おっぺけペー」がそれらしい。その演歌が、昭和に入ると義理や人情、男女の情感などを歌う歌へと変わっていって、私たちが今聞く(歌う)演歌になったということです。
 演説の歌の「演説」はスピーチの訳語として使われ、多くの人々の前で自分の主義・主張や意見を述べることとして使われておりますが、仏教では、仏さまが教えを説くことを言います。
「一切の経典を宣暢し演説す」(無量寿経)「この法教を演説し」(理趣経)など沢山の経典で見られる言葉です。
 和讃や御詠歌は、教えを説いたり、信心の趣を扱うから、これぞホントの演歌ってことにならないかな?

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寒天 かんてん

 今年(平成17年・2005)、「生活習慣病の予防効果あり」と健康食品として寒天が取り上げられ、これを書いている現在でも手に入りづらい状態らしい。
 さて、この寒天は、江戸時代に京都伏見の旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門が、冬の戸外に捨てたトコロテンの乾物から発見したという。隠元禅師(黄檗宗の祖師、インゲン豆を日本にもたらしたことでも有名。)に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できるということで、寒天を奨励された。その時この食べ物の名前を尋ねられ、決めていないと、伝えると、隠元禅師が「寒天」と命名されたという。
 その後の一八八一年、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発。そのために海外からも大いに必要とされたとのこと。医学の観点からも寒天は大活躍。日ごろの健康の助けとしても寒天は面目躍如なんですね。今年のスターですネ。

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達者 たっしゃ

 達者というと、ある物事に熟達していることか、からだが丈夫なことの意味で使われています。なぜか「お」をつけてお達者とすると、元気で若いものには負けてないご老体を指すようです。
 さて、仏教で達者とは、「真理に達した人」、「これ以上なすべきことも知るべきものもない境地に達した人」を指す。つまり、仏さまや菩薩さま、高僧などを示す言葉だったのです。言葉は時が変わると意味が転じていく、これは世の常のようで、この達者も 堪能・壮健の意味に変わっていきました。そういえば、仏教語の「達者」と同義とされている「極道者」も随分変わってしまったなぁ。
 なにより、三十年後のボクが口だけは達者な坊さん!て呼ばれるのを心配している…。

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油断 ゆだん

 注意を怠ることや不注意のことを意味します。この言葉はお経から出てきた言葉です。お経には―ある王が家臣に油の入った一つの鉢を持たせ、その衆中を行くときに「一滴でもこぼせば、お前の命を断つぞ」、と言った。抜刀した一人の家来にその家臣の後をつけさせた。鉢を持った家臣は注意深くその鉢を持ってゆき、終に一滴も油をこぼすことがなかった。(『涅槃経』)―と記されております。
 仏前のお灯明や燈籠は、仏さまの智慧を象徴します。昔は油を使っていましたから、「油が切れてなくなる」ことは、智慧が失われ、仏さまに対し失礼になる。それこそ油断は禁物です。
 毎年のことながら、「暮らしの中の仏教語」の原稿も油断をしていると、すぐに締め切りがきてしまう。鬼の編集長の催促の嵐!

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さもしい

 見苦しい、みずぼらしい、卑劣な、心がきたない、といった意味で使われる言葉ですが、仏教語の「沙門(しゃもん、さもん)」から作れらた(サモン+シイ)言葉だそうです。  日本では、沙門は【仏教のお坊さん】の意味で使われておりますが、原語の梵語では「シュラマナ」(努力することの意)といい、お釈迦さまの時代、古代インドでは、バラモン教以外の自由な思想家・宗教家や修行者を指す言葉だったそうです。当然ながら、お釈迦さまも沙門でした。  お坊さんが食を乞うこと(つまり、托鉢)から連想されて、あまり芳しくない意味に転じたのでしょうね。

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瑠璃 るり

 宝石の類はインドでも貴重なもので、観音経(法華経二十五章)では、「金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等宝を求めんが為」大海原へと航海して・・と、記されております。ご存知の宝石の「ルリ」のことです。もとは吠瑠璃(べいるり)と表記していたものが、【ベイ】を略して【ルリ】となったようです。原語の梵語では「ヴァイドゥールヤ」、その音を写して「吠瑠璃」となりました。おそらく仏教とともにインドからやってきたものでしょう。  ルリといえば、ルリで出来ている大地の浄土を浄瑠璃世界と言い、その浄土の主は薬師瑠璃光如来です。その手に薬壺をもって、あらゆる病を治してくれます。温泉の入り口にたいていおまつりされておりますネ。別府で身近な仏さまのひとつです。

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温室 うんしつ

植物などを育てるための施設《おんしつ》ではありません。寺院に設けられた浴室、お風呂のことです。
インドや中央アジアでは身体の清潔を重んじ、また暑熱も手伝って僧院に浴室が設けられて、洗浴の功徳を説くお経やら、入浴の仕方を取り決めた戒律なども制定されたとのことです。
日本では仏教の社会事業の一端として、病人や貧しい者などのために寺院の浴室が開放され、室町末期には、いわゆる〈銭湯〉へ発展します。
さすがに別府だけにお寺さんのお風呂も温泉というところも多いはず。温室育ちのお坊さんも多いかもネ。

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落慶 らっけい

寺社などの新築または修理の落成を祝うことで、落成慶讃と呼ぶこともあるそうです。
しかし、お祝いに「落ちる」とはなぁ、とずっと疑問に思っていたら、辞書には「落」にはできあがってきまりがつくと、ありました。
あっという間に片付いて「これにて一件落着!」

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恒河沙 ごうがしゃ・阿僧祇(あそうぎ)
那由多(なゆた)・不可思議(ふかしぎ)

最近、NHK教育テレビの子供番組でもとりあげられています。

 では、数の位を言ってみましょう。一・十・百・千・万・億・兆、ここまではよく耳にします。
その後、京(けい)・垓(がい)・杼(じょ)・穣(じょう)・溝(こう)・澗(かん)・正(しょう)・載(さい)・極(ごく)と、数の位は続きます。

この後が、恒河沙(ごうがしゃ)・阿僧祇(あそうぎ)・那由多(なゆた)・不可思議(ふかしぎ)・無量大数という位になります。「恒河沙」以降が仏教用語になります。

(1)恒河沙(ごうがしゃ)の恒河とはインドを流れるガンジス川のこと。「沙」は「すな」のことです。
つまり、「ガンジス川の砂」の粒のすべてが、恒河沙ですから、それほどに多い、ということです。

一○の五二乗、0が52個もある数になるそうです。また、「ものすごく多い」を表すときには、「恒沙」(ごうじゃ)と略して使うこともあります。

(2)阿僧祇(あそうぎ)、原語の梵語で「アサンキャ」を音写したものです。数えらないという意味の語です。これが一○の五六乗、0が56個もある数になります。数えられない、というのですから、これで終わりにすればいいものを・・・・・。
まだまだ、続きます。

ちなみに奈良時代の仏教では、人間が仏さまになるには三阿僧祇劫(あそうぎこう)という永遠に近い時間に亘る修行が必要、というのが通説でした。

(3)那由多(なゆた)という位。原語の梵語「ナユタ」を音写した言葉。一○の六○乗、0が60個もある数になります。

(4)不可思議(ふかしぎ)、原語の梵語で「アチントゥヤ」、「考えることができない」の意味で、思議する、つまり考えることができない(不可)で、不可思議となります。不可思議光如来といえば、阿弥陀仏の別名です。

また《可》をとると、あら、フシギ!不思議となります。これが、一○の六四乗、0が60個もある数になります。ここまでくると、考えることすらイヤになっていまいます。

  大きな数も仏教由来の言葉ですが、一より小さい数、小数点以下にも仏教語が出てきます。「大きなものから小さなものまで」と、まるでどこかのCMみたいです。

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渡りに船

闇夜(やみよ)に灯火(ともしび)

 「渡りに船」も「闇夜に灯火」(「闇夜の灯火」とも)もどちらとも、困っている時に、いちばん役に立つものにめぐりあうことですし、また、切望しているものにめぐりあうことです。

 典拠になったのは法華経で、「この経はよく大いに一切の衆生を饒益してその願を充満せしむること(中略)

子の母を得たるごとく、渡りに船を得たるごとく、病(やまい)に医(くすし)を得たるごとく、暗に灯を得たるごとく(後略)」と、法華経の功徳の素晴らしさを説いているところです。

 この世(迷い)の此岸から悟りの彼岸へ運び渡す「弘誓の船」、仏や菩薩の救いの助け船が、私たちを待っている。

道に迷い、月も星もない暗い闇夜を行く私たちの心細い切ない思い、それを和らげる慈悲の明かりが、仏や菩薩の智慧の明かりがあります。仏・菩薩はいつも私たちのそばで見守ってくださっているのですね。

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玄翁 げんのう

 辞書によると、「一端は平らで他端は中高(ナカダカ)になった大型の金槌(カナヅチ)のこと。大工や石工が建築や石をくだくのに使う道具。」と載っています。この金槌の名前、実は南北朝時代の曹洞宗のお坊さんの名前です。源翁とも書かれることもあるそうです。
 その昔、下野(しもつけ)那須野(栃木県那須温泉付近)にあり、周囲から有毒ガスをふき出して鳥やけものを殺すといわれている「殺生石(せつしようせき)」という溶岩があった。その殺生石を玄翁和尚が割って悪霊を除いた。
 この伝説から、金槌の名称になったということです。

 この殺生石は、鳥羽(トバ)天皇(平安時代の終わりごろ、12世紀)の寵愛を受けた玉藻前(たまものまえ)(老狐の化身、白面金毛九尾の狐の妖怪)が殺されて石になったもので、人に災いを与えていた。後深草天皇時代(鎌倉時代、13世紀)、玄翁和尚によって砕かれ、殺生石は飛び散って、現在の豊後高田市にも到った、ということです。

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