別府南無の会 タイトル
私の好きな仏教の言葉2007


■金剛般若経 荘厳浄土分第十

応に住する所無くして而も其の心を生ずべし

『金剛般若経 荘厳浄土分第十』

 いかなるものにも心を留めないようにして、心を起こしていくという意味なのですが、何だがよく解りませんね。

 ひとつの物事に執着して、いつも同じことばかり考えています(すなわち、心を留める)と、ついには身の回りでおきていることに気づかなくなり、心ここにあらず、となってしまいます。このような日常生活にならないように、変化していく物事ひとつひとつに対応していく柔軟な心を持つことが大切であり、それにより自由自在な生き方が出来るのです。
やり直しができない一度きりの人生を悔いのないものにするために、無住の心をつくる実践をしていただき、真実の心の発見、即ち悟りの境地をご自身のものにしていきましょう。(K・K)

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■弘法大師のおことば

よく誦じ、よく言うこと鸚鵡(おうむ)もよく為す。言って行ぜずんば、なんぞ猩猩(しょうじょう)に異ならん。

 弘法大師『秘蔵宝鑰巻中』 

 善いこと立派なことを言っておきながら、実際には行いが伴っていない得手勝手な人がいます。それならば言葉の意味がわからないオウムや猩猩となんら変わりはないでしょう。

 人は言葉で意思を伝えることができます。電話等の通信機を用いれば顔を合わさず話しをすることも可能です。しかし「顔が見えない」ということを巧みに利用して、甘い言葉で誘惑したり、弱みに付け込んだりする犯罪が後を絶ちません。

 また最近では、「作りたてを本日中にお召し上がり下さい」と謳いながら、余った商品を実は製造年月日や賞味期限を改竄して再利用するという残念な事件がありました。

 どれだけ綺麗ごとを並べても、そこに中身が伴っていなければ信用がなくなります。それほどまでに、人というのは行いでもって自らを表さなければなりません。

 常に自らの言動・行動を省みて、過ちがあればそれを正し、人として正しく生きていくことが、信用という無形の財産を蓄え育て上げることにつながる、ということを教えてくれます。

 信用とは仏性そのものなのです。(S・F)

※ 猩猩(しょうじょう)・・・中国で、想像上の怪獣。人に似て体は狗の如く、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む。

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■無常(むじょう)迅速(じんそう)の偈(げ)

謹白大衆
生死事大 無常迅速
各宜醒覚 愼勿放逸

謹んで大衆(だいしゅ)にもうす、
生死(しょうじ)の事は大なり、
無常迅速なり。
おのおの宜しく醒覚して、
つつしんで放逸なることなかれ

これは、三百五十年前、中国より禅の教えを伝えた隠元禅師が開かれた、黄檗宗本山黄檗山萬福寺(京都宇治市)の山内の回廊に下げられた版木に書かれている偈文である。

現在でも萬福寺では、中国の唐韻(とういん)で「キンペダチョン・センススダ・ウジャンジンソウ・コギシンキョ・シイウファイン」と、起床・就寝の合図として修行僧(雲水)が山内を唱えて巡照している。

 修行僧(雲水)たちに対し、光陰は矢より早く、身命は露よりももろいことを警告して、この人生の一大事を悟るべく寸刻を惜しんで努力精進すべきことをさとす言葉である。

―各々方よ、生死の問題の重大さに気付かれよ。諸行は無常である。時は一刻たりとも止まってはくれない。明日ありと思うて、ゆめゆめ怠りめさるな。―

「諸行は無常」ということは仏教の出発点である。「諸行」とは我々をとりまき、我々をあらしめている、よろずのはたらきというのが、その語義であるが、煎じ詰めれば、我々自身の「生・老・病・死」のありさま、つまりは「生死」である。「生死」はまた、仏典の用語としては、ただ一度の生き死にではなく、数限りない生死流転、輪廻転生をいう。その移り変わりの機を「無常」と表現する。この無常なる人生にあって、人は如何に処すべきか。人は死を恐れ、不死を望む。無常をはなれて、常住の安楽を求める。生死の苦を越え出た寂静安楽の世界を、仏教では「涅槃」とよぶ。

 生死を離れて涅槃に入るというが、何処に涅槃という世界はあるのか。我々には、生まれて死ぬ無常なあり方を除いて、他のあり方はない。無常だとなげくのは、人生が無常であるのに、それと気付かず、いつまでも変わらぬものと思って、むさぼり、恋々として執着し、挙げ句の果てに自暴自棄で苦しんでいるからではないか。諸行無常と悟れば、そこに涅槃の世界がある。生死即涅槃であり、生死をおいて、他に涅槃はない。これが「生をあきらめ、死をあきらめ」ることである。菩提心を発し、菩提道を行じ、衆生済度の実践こそが仏教の第一義である。(S・H)

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■三帰依文

人身受け難し、今すでに受く
仏法聞き難し、今すでに聞く
この身今生に於いて度せずんば、更にいずれの生に於いてか、この身を度せん。

【大意】私たちは人間に生まれ、いかされている―有り難い。
その上、教えを聞くことができる―有り難い。
この人生において救われないのなら、一体いつ救われるというのか。

 宗派を問わず唱えるものです。この後に「大衆もろともに至心に三宝に帰依し奉るべし」と唱え、「自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意、自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海、自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍」(華厳経浄行品)と続きます。

 さて、先日、お檀家さんのお宅で、生後十日の赤ちゃんを見ることがありました。ニコリと顔が笑ったり、お母さんの指を握ったり、赤ちゃんの初々しい一挙手一投足や表情はそれだけで微笑ましい。「無事に、よく生まれて来ました。」―奇跡のようで、ありがたいことですネ。

 そして、二千五百年前のインドから脈々と、海を越え、山を越え、時を越えて、今ここにいる私に仏の教えが伝えられているということ。その上、その仏の教えとご縁を結ばせていただいていることは、奇跡をどれだけ連ねてきたことだろうと思います。

 私たちの人生はすでにこれだけの素晴らしい環境を手にしているわけです。覚りの道を歩み始めるチャンスを逃さないようにしたいものです。(K・S)

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■蓮如上人のおことば

きわめて堅きは石なり。きわめてやわらかきは水なり。水よく石をうがつ。 

そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。
心の奥底まで徹すれば、どうして仏の悟りを成就しないことがあろうか、ということばがある。
信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。
ただ仏法は聴聞することに尽きるのである。と、仰せになりました。

 このご文は、蓮如上人御一代記聞き書きにある文章です。浄土真宗的な受け止め方であり、また人生訓でもあろうかと思います。

水には柔軟性があります。丸い器に入ると丸くなり四角の器に入れると四角になり、しかし、水には変わりがありません。浜辺の海水が岩に打ちよせ、その岩が長い時間で丸くなり、また軒下の石が屋根からのしたたる雨で掘られるような状態を「水、よく石をうがつ」といわれるのでしょう。

 イソップ物語の「北風と太陽」では、旅人のコートを脱がせようと北風と太陽が競います。旅人は太陽のやわらかい日差しをうけてコートを脱ぎますが、北風は力の限り風を吹かせようとしますが、旅人は逆にしっかりとコートをつかまえてしまいますね。

柔軟に生きるとは、自然(じねん)でありさらさらと生きていくことだろうと思います。強いことが必要といわれますが、強さにはもろさが伴います。あれだけ強い横綱朝青龍も、このたびはもろい面がありました。仏法に生きる私たちには、仏さまの智慧が必要であり、そこから柔軟さの中本当の強さが出てくると思います。(M・T)

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私の好きな仏教の言葉2006


■蓮如上人のお言葉―御文章より

 末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、
こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、
さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、
仏たすけたまえともうさん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。
これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、
いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。

浄土真宗第八代蓮如上人『御文章』

【意訳】末代の世の智慧なき在家生活者は、男性も女性もただ心を一つにして、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げるのがよいでしょう。決して他の仏、菩薩などに心を振り向けることなく、一心一向に「阿弥陀仏よ、おたすけください」とおたのみする衆生を、たとえ罪は深く重くとも、弥陀如来は必ずお救いくださるのです。これがすなわち、第十八願の念仏往生の誓願の心なのです。以上のごとく信心が決定したうえには、寝てもさめても、命あるかぎりは称名念仏すべきであります。大変にもったいないことであります。

 蓮如上人四十八歳の時に始まりお亡くなりなられる前年八十四歳まで多くの念仏者のために書かれたお文(お手紙)で全二百二十通あまりが残されている。

 文書伝道の先覚者でもある。この御文章は真宗門徒の日常ポピュラーのようなものである。

 蓮如上人はこのような形で門信徒に親鸞聖人のお心をわかりやすく伝えられた。私たちへの呼びかけから始まり、信心とその生活という真宗の教えの骨子が簡潔に述べられている。

 末代無智、罪業深重の我が身を自覚するところに阿弥陀さまの救済があり、仏恩報謝の称名念仏の生活が恵まれる。真実の教えに導かれ真実に生き抜く生活が切り開けていくことの大切さを教えられる。(M・T)

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■お釈迦さまの言葉

自分の愚を恐れ悲しむことなかれ

 お釈迦さまが弟子であるチューラパンタカに説いた言葉です。

 一切の衆生は悉く仏性を有しています。つまり人は誰でも仏になるべき可能性いわゆる仏性を持っているということです。

 暗記力の極めて弱いパンタカでも仏道に達したというのは、そのことを教えてくれます。

 今、時代は急発展しています。その時代の渦中にあるのが人間社会です。人間社会が即ち競争社会であり、大小個々にかかわらず全てに於いて競い合い、比べ合い、優劣の中に個人が存在しているような気がします。

  社会に馴染めなかったり競争に敗れたりすると、自らを愚かで弱い者だと決めつけ、道に迷ってしまう人が増えつつあります。しかし、自らの弱さを知り、向かい合うことが、自らの内なる可能性(仏性)を導き出すきっかけにつながるわけであります。自身の大いなる可能性を信じ、それを開発すること、少しの試みで人は大いに変わる事ができます。

 「眼前に困難が現れた時、人はそれを乗り切る能力を持っている」と師から習いました。人はそれほどすばらしい可能性を本来的に有しています。それを気づかせてくれるのが、み仏の教えであります。(S・F)

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■観無量寿経の言葉より

 仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈しみを以て諸々の衆生を摂めたまう

『観無量寿経』

 仏様のおこころは無縁慈悲または衆生縁慈悲といいます。古いインドの言葉で「慈」はマイトリーといいます。特定の人だけでなくすべての人に利益と安楽を与えるとあります。

 「悲」はカルナーで、すべての人々の不利益や苦しみを除くと言う意味です。

 お釈迦様は私たちのことを「善男子、善女人」とお呼び下されております。現代社会において、自我愛しか持てない哀れな人たちが急増しています。子育てを放棄する親、我が子を虐待する親、また親を省みない子など、とても悲しく残念なことです。

 仏教では、仏の心を説くときよく母親の心を譬えとして使います。厳密には母親の心は自分の子どもへのものなのであり、有縁の慈悲なのですが、仏の心は無縁慈悲ですから少し違っています。ただ、お釈迦様は「すべての人々を愛すること、吾が子ラゴラを愛するが如し」とおっしやられています。親の心が吾が子だけでなく、自分たち肉親をとりまく人々にも同様に慈しむ心を持つことが大切なことであり、小さな慈悲が大きくなり大慈悲になっていくのです。(K・K)

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■値遇―であい―

霊山(りやうせむ)の 釈迦のみまへに 契りてし
真如くちせず あひみつるかな   

行基さま

【大意】菩提僊那(ぼだいせんな)さま!お釈迦さまがインドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお説法されている時に、お釈迦さまの前であなたと再会を誓った、あの真実が朽ちることなく果たされて、またお会いすることができました!

 東大寺大仏の開眼供養法会のため、インドから来日した僧侶、菩提僊那(インド名・ボーディセーナ)さまが、難波津に到着された時に、行基さまが詠われたのが、この歌です。

 菩提僊那さまと行基さまは、初対面でありながら、《値遇の縁》というよりももっと強いつながり―お釈迦さまの前で約束をして、仏の教えに従い、何度も生まれ変わりながらようやく果たされたと、確信しておられたんだなぁ。

 皆さんはこんな素晴らしい出会いを人生の中で経験できましたか。さしずめ男女の仲なら「赤い糸」ですネ。

 江戸時代には同じように素晴らしい値遇をされた方がおりました。

りやうぜん(霊山)の しやか(釈迦)のみまへ(御前)に
 ちぎり(契り)てしこと な忘れそ よはへだつとも

りやうぜんの しやかのみまへに
 ちぎりてしことは忘れず よはへだつとも

 この歌を詠われた良寛さまと貞心尼です。(K・S)

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■白隠禅師の坐禅和讃より

無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智圓明の月さえん

 この句は、江戸時代の白隠禅師の示された坐禅和讃の一文である。

 心を一つのことに集中して、静寂なる状態を禅定、三昧と言う。

 坐禅では、精神を統一して無念・無相の境地になり、自己の本来の心を明らかに見る(見性)を目指す。白隠禅師は、坐禅修行の工夫に公案(無字の公案・隻手音声の公案)を取り入れた。禅の教えは、坐禅・作務(掃除)・托鉢によって体得される。

 しかし、厳しい修行道場だけが修行の場所ではない。「歩々是道場」と言われるように、日常生活の場所が、どこにいても心の修行道場となる。菩提心を起こし、己事究明(自分とは何者ぞ)と参求し、ゆうずうむげ融通無碍の自己を確立することを目ざし、菩薩行を実践し、身心の安心立命を目指す。

 しかし、無心になることは非常に難しいことだ。でも、自分の好きなことをしている時は、あっという間に、時間が過ぎてしまう。逆に静かな所で座っていると時間が長く感じる。時間は同じである。物事に集中して雑念なく物事が行えれば、掃除三昧・音楽三昧・舞踊三昧・仕事三昧など、日常生活の行動そのものが仏の行い(仏作仏行・無作妙用)である。静かなお仏壇の前でお経三昧・お念仏三昧・お題目三昧も素晴らしい心の修行の場である。

 現代社会は、日々ものすごいスピードで変化している。現代人の身体と心は不安とストレスでいっぱいである。引きこもりや、鬱病が増えているそうだ。限りあるはかない人生をそまつにし、自分の心や周りの人々の心に地獄を造っている。白隠禅師は、悩み多き人生の問題に向き合い、端的に教えを指し示してくれる。

 秋の夜空に皎々と輝く満月に、仏の智慧の光と、暗闇を普く照らす慈悲の光を見出し、菩薩道の素晴らしさを教えてくれている。    (S・H)

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■日蓮聖人のお言葉

蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。

 生きていく上で、お金は必要で大事なものです。そのお金も元気でなければ、使えないしお金を生むこともできません。それよりももっと大事なことは、そのお金をどういうふうに又何に使用するかが重要なことです。それは心次第です。

花を愛し月を愛し、酸きを好み苦きを好み、小さきを愛し大なるを愛し、色々なり。

 この言葉のすぐ後に「善を好み悪を好み、品々なり」と続きます。世のため人のために、善を施せば人との強調を知り、心豊かになります。また、悪を知れば人の心の移りを学ぶことが出来、自身の心の油断を知ることが出来ます。「邪正一如」という言葉があるように善と悪は一致します。共に自身のためになります。万物全てを受け入れ、よき方向へもっていく。これが菩薩行という修行です。前向きなプラス指向こそが自身を助け人をも助けることになるのです。(G・T)

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私の好きな仏教の言葉2005


■ 發願文 善導大師 

「願弟子等 臨命終時 心不顛倒 心不錯乱 心不失念 身心無諸苦痛 身心快楽 如入禅定 聖衆現前 乗佛本願 上品往生 阿弥陀佛国…」

【大意】「願わくはすべての念佛を唱える佛弟子が、命が終るときに、心が迷うことなく、心が乱れることなく、心を失うことなく、身心共に悩み苦しみなく、やすらかにおだやかな静けさの中で、阿弥陀佛や多くの菩薩のお迎えをいただいて、佛の本願に従って阿弥陀佛国へ上品往生できますよう…」

 現代社会は日々目まぐるしい変化をおこしながら、時を刻んでいる。私たちのまわりも否応なく変わらざるを得ない。生きるために毎日を懸命に過ごしていますが、それは死を迎えるためにある、ともいえるでしょう。

その死を迎えることにも大きな変化が見えます。昔は死に対する処し方を集落や共同体という地域の中で行ってきましたが、現在はこの共同体や地域、集団が崩壊を始めています。

 経済活動の激しい流れの中で、世の中の仕組みは、都会型、産業重視型、個人型、少子化、さらに医療の高度先進化などで、人々は死を遠ざけたように見えます。平和な六十年、死は映像でみせるだけの、実体験のないものとして、歩いています。私たちは『死』を『命が終る一瞬』をどこでどのように見るのでしょうか。(K・Y)

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■即身成仏義 弘法大師 

加持といっぱ、如来の大悲と衆生の信心とを表す

万物を照らす仏さまのみ光が私たちの心水を照らし、私たち自身がまるで月のように光輝くことを「加」といいます。私たちの心水が照らされ加護されていることを感じ、自身から仏の御手にすがること、自身の光を更に輝かせるための仏心を持つことを「持」といいます。

仏さまの願いは我々一切衆生を救うことです。つまり、仏さまは常に私たちに救いの御手を差し出しているのです。その御手にすがるには自らその手を伸ばすことが大事なのです。

 仏さまは常に我々の方を向いておられるので、後ろ姿、いわゆるお背中を見せることはありませんね。十一面観音さまをご存知でしょうか。その名のとおり十一のお顔をお持ちの観音さまですが、そのうちの一つは何と真後ろを向いております。もちろん私たちがそのお顔を拝見することは出来ません。そのお顔の名は「暴悪大笑面」といい、仏さまの前に立つことを許されない「悪」をさげすんで笑っているお顔であります。

 お加持やご祈願を頼む方に「現状の困難さえ解決すればよい」という様子が伺える場合があります。その時はしっかり手を合わすが、事が終わればそれまで。何だか寂しいですね。

「いそげ人 弥陀の御舟の 通う世に 乗り遅れなば いつか渡らん」

聖徳太子さまのお言葉でございます。

せっかく仏さまがいらして下さるのだから、常に自らを省みて自身の光を高めてみませんか。仏さまが呆れてそっぽを向くなんてことは無いとは思いますが・・・(S・F)

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理源大師 聖寶さま

信は荘厳なり

仏様の御教えを正しく理解するためには、まずはじめは形から入りなさいと言われています。たとえば静かな場所の清らかな一室にて尊像を安置して供具(お供物・花や香など)を調え荘厳した後、身を禊め清潔な衣服を着け経典を読んだりお念仏をお唱えすることをいいます。それは、周囲の状況が人の精神に大きな影響を与え、動作や外界の事相がこころに作用して、内面に秘められている仏心が目覚め、真理へと導かれて行くのです。

ですから、ご家庭において仏壇を安置し仏間をきれいに掃除され、御本尊様にお供え物をして、灯明やお線香を焚いてお参りすることは大事なことであり、大切な作法のひとつなのです。

(K・K)

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■坐禅和讃 白隠禅師

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

白隠禅師は、江戸時代の臨済禅中興の祖師である。禅師は、漢文で書かれた語録や経典、禅問答に象徴されるように解りにくい禅の教えを、身分制度の厳しかった時代に、身分の上下なくどんな人にも解りやすく、和讃の様式で多くの本を残している。この文は坐禅和讃の冒頭の句である。

衆生とは迷える人々。自我に執着し、五欲におぼれ、三毒に迷う我々凡夫のことだ。

しかし、この迷える凡夫も元々は、仏になる可能性(仏性・仏心・自性清浄心)を生まれながらに備わった存在であると、禅師は端的に表現している。

人間・シャカが悟りを開かれ、仏陀(真理に目覚めた人)と成られ釈尊と呼ばれるようになった。この人間存在の摩訶不思議さ。諸行無常で移ろいやすく、はかないこの一人の命。

宇宙の真理に目覚められた釈尊の教えは、広大無辺で様々な宗派や仏像・経典等に表現されて今日信仰されている。日本に伝わった仏教各宗派の教えは、中国から伝わった大乗仏教と言われる。漢訳経典を中心に膨大な教えが現存している。大乗仏教の根本思想は、衆生の救済である。

禅師は、迷えるもの(衆生)を氷・真理に目覚めた(仏)を水に譬えている。水も氷も周りの温度により状態が違うだけで、本質は同じ成分だ。この迷える状態は、氷のように心が堅く冷たくなり周りの人々を傷つける。仏の教えに目覚めると、水のように清らかで、周りの人々に生きる力をあたえる。煩悩・迷いの多い衆生こそが、救済の対象であり大乗仏教の中心眼目である。仏の教えを実践する人を菩薩と言う。自覚覚他の実践である。

現代は、禅師の活躍された300年前とは生活様式・時代があまりにも違うが、個人の安心・救済・幸せ感は、外国や都会にあるのではなく、どこまでいっても足もと・自己の心の中に発見しなければならない。融通無碍・自由自在の心を体得して、有意義な人生を送ることの大切さは昔も今もかわりない。(S・H)

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日蓮聖人のお言葉

「法華経は紙付に音をあげてよめども、彼の経文の如くふるまう事、かたく候か」

「口ばかり言ばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず。

色心二法共あそばされたくことこそ貴く候へ」

 紙付とは、紙に印刷された文字のこと。振舞とは実行のことです。尊い法華経もただ紙の上に印刷された文字を、声を張りあげて読むだけでは信仰者でなくてもできます。しかし信仰とは単に経文を読むことだけでなく、経文が説き示す通りに振舞うこと、行動することが信仰なのです。教えの実践はむつかしいものです。知っていてもやれない、わかっていてもなし得ないものです。法華経の信奉者、教えの実践がつとめなのです。

 口で読むばかりでなく、心で読み、身をもって読むこと。

 「色心二法・行学二道」身体と心、修行と学道、どちらが欠けても人間として失格です。充電したものは放電する。お経でそして修行で身に付けたものは、人のため世のためにならなければ何もなりません。(G・T)

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親鸞聖人ご和讃

悪性(あくしょう)さらにやめがたし    こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり

修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに    虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる 」

浄土真宗開祖親鸞聖人の晩年、八十六歳(正嘉二年、一二五八年)のとき十六首にわたって、非常に罪業感の深い自分自身の心の内を述べられた和讃の一つ。末尾には「已上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり」と記されている。八十四歳のときに長子・善鸞を義絶するという大変に悲劇的なことがあり、子どもにそむかれるという親の深い嘆き・悲しみの体験があったからではないでしょうか。

 悪性といえば、普通は悪い本性と思われますが、仏教では本性を善とか悪とかに決めつけることはあまりいたしません。基本的な思想の流れは、人間の心はどんなに汚れていても、その底には清らかな心が一貫して存在している。それを「仏性」と名付ける。人間の本性は本来清らかである。善し悪しを離れて清らかであるという思想がずっと続いてきています。道徳的な善し悪しでなくむしろ善し悪しを超えたところから物事を冷静に判断するという考え方です。

 しかし、ここでは「性」は性分とか性癖といったような意味です。自分の心はどちらかというと悪に傾きがちである。そういう内面からのことばと解釈したほうがいいと思います。「さらに」は一向にやめがたい、やまない。「こころは蛇蝎のごとくなり」、自分の心は絶えず悪に傾きがちである。その心はあたかも蛇(へび)や蝎(さそり)、毒をもっている毒蛇やさそりという意味でしょう。「修善も雑毒なるゆえに」とは、たとえよいといわれることを行っても、「雑毒」、毒がまじっている、毒をまぜている。つまり煩悩がまじっているので、「虚仮の行とぞなづけたる」、正しい清らかな行とは名付けがたい。「虚」は内容がない、「仮」は一時的なかりそめの行です。まことに欠けた内容のない虚仮の行、真実とはほど遠い行といわなければならない、というのです。

 欲望ばかりがうずまく私の心の中、まるで毒蛇やさそりが今にも飛びかかっていきそうな、そんな恐ろしい心をも常に持ち合わしている私に気づいていく世界が、お念仏の世界だ、と教えられます。

ところで、今年は全国各地で今までにない動物が発見されています。ペットとして飼われている方、最後まで責任をもって大切にして欲しいものですね。(M・T)

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