別府南無の会 タイトル
私の好きなお祖師さまの言葉U

◆臨済義玄禅師のお言葉◆

赤肉団上に一無位の真人あり。 常に汝等諸人の面門より出入す。 未だ証拠せざる者は看よ看よ。

 「赤肉団上」とは、真っ赤な血が流れる、肉体のことである。この肉体は、数兆の細胞で構成されているが、汗やフケ・アカがでる、糞尿の詰まった袋でもある。しかし、この肉体のなかには「一無位の真人」が住んでいると言う。無位の真人とは、地位や名誉や金や物に惑わされない、本来の自己。つまり人間のすべてをあるべくしてあらしめる、個性豊かな世界そのももだ。生まれてより今まで、昼夜休むことなく働きつづけている真人。何にも惑わされない、浄穢不二・自由自在の主体的人間性を体得せよと禅師はうったえている。自由自在な心とは、自我・欲望にとらわれない、仏法の真理を体得することであり、菩薩の心、仏作仏行のできる人間に目覚めることである。          (S・H)

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◆親鸞聖人のお言葉◆

他力というは如来の本願力なり 『教行信証』

 他力とはご本尊阿弥陀如来の本願力をいいます。一般によく言われるような他人の褌で、すもうをとるといったたぐいの、他人まかせの無気力な考え方をいったのではありません。他力とは、仏の力=本願力をいいます。つまり、「さとりを開く手段をもたない悲しむべき存在の我々を救わずにはおかない」という願いからおこされた阿弥陀如来の救いの力です。

 他力本願が、他人の力を借りるとか、あてにすることであるかのような誤解があります。マスコミ報道がよく使っています。ある閣僚が「これからの日本は他力本願では駄目だ。自力本願だ。」などと発言していました。もともと自力本願という言葉などないのですから、おかしな発言です。

 <ご本願が聞こえるのは他力による>ということが他力本願ということです。本願というものに自力はないのです。阿弥陀如来のご本願の世界に入るのは仏力によらねばならない、それを他力本願と言うのであって、他人の力をあて・たよりにするという無力なことをいうのでなく、燃え立つような如来さまの本願力のことなのです。その本願力によってこそ我々は永遠の命を恵まれて安心のうちに力強く人生を歩むことができるのだと言えましょう。  (M・T)

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◆役行者のお言葉◆

本覚円融の月は西域の雲に陰るといえど 方便応化の陰は東海の水にあり 神変大菩薩・役行者小角

 この句は、大宝元年(七〇一)六月七日の暁、弟子たちへの最後の偈として書かれたもので、この直後昇天されたと言われています。

 愚僧なりに解釈いたしますと、「私の人間としての寿命が尽き、姿がなくなったとしても、嘆き悲しむことはやめよ。私が修行によって得た多くの法を残してゆく。だから、私に会いたいときは、一心にその修法をすればよい。いつでも会えるのだ。私の魂はいつまでも大峰の山にとどまり、決して他所へは移らない。」

 つまり、正しい教えというものは、時代を超えて普遍であり決して変わることのない絶対的な真理なのです。           (K・K)

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◆弘法大師のお言葉◆

此の身は虚空より化生するにあらず、大地 より変現するにあらず。 必ず四恩の徳に資ってこの五陰の體を保つ。 『教王経開題』

 【大意】人間は天からぱっと生まれたり大地よりすっとわき出たりする、何ものとも関わりなく生まれるものではない。必ず父母・社会(国)・自然(衆生)・三宝(佛と教えと教えを奉ずる者)の四つの恩に恵まれて限りある命を保っている。

 私たちは、このお大師さまの名言と同じ意味の言葉をよく使っています。「お蔭さま」と。

 最近は「共生」という言葉を耳にしますが、「共に生かされている」こととして実感し、「お蔭さま」の心を実践できれば、たやすいことではないだろうか、と思っています。でも、言うはやすし、行うは難しです。       (K・S)

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◆日蓮聖人のお言葉◆

親は十人の子を養えども、 子は一人の母を養うことなし。 『刑部左衛門尉女房御返事』

 子供のために親は、食べる物も食べず、眠る時間をけずってでも育てようとする。本能とはいいながら大変なことです。

 幼い頃は手がかかるし、時期がくれば反抗してくる。同じ親から生まれ出て、同じ飯を食って、同じ環境で生活し、同じしつけをしても、子供三人いれば三人、五人いれば五人とも性格・能力がそれぞれ違う。なぜなんでしょう。お経の中で「上七代下七代」ご先祖のせいだといっている。先祖上七代までの誰かの影響だと。だから親はしつけの仕方が悪いせいだと神経質になることはありません。子供の良いところだけ見つけてあげればいい。「親」という字を見てごらんなさい。立木に見ると書きます。立っている木のようにドシッと構え、子供を見つめる。見放さず必要以上に近づかないようにすることです。

 今の子供は何を考えているかよくわからないとよく言いますが、そうでしょうか。大人は子供に遊ぶ場所を提供していない。道路はダメだし、公園はお年寄りが早朝より夕刻まで陣取ってるし、校庭はクラブで使ってる。心に遊びがなければ、ゆとりも余裕も作れません。ゆとりのない子供は親の面倒を見てはくれません。

 冒頭の言葉は七百年前のことです。子供の少ないこの時代よけいむつかしくなります。せめて三連休の一日でも登校させ、先生と泥んこになって昔の遊びを教えたらどうだろう。意外にいじめられっ子が力を発揮し、皆の目線が変わるってこともあるんじゃないでしょうか。 (G・T)

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◆法然上人のお言葉◆

会者定離は、常の習、今はじめるにあらず。 何ぞ深く歎かんや。

宿縁空しからずば、 同一蓮に坐せん、浄土の再会甚だ近きにあり。

今の別は暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。

信謗ともに縁として、先に生れて、 後を導かん、引摂縁は、これ浄土の楽なり。 『法然上人法語』

 私共の生き方は人により様々な姿があるが、阿弥陀仏を信仰の対象として、往生極楽を信仰の目的として、称名念仏を目的達成の法と心得て、生きていくのが、浄土の教えを信じている者の姿と思います。阿弥陀さまと一蓮托生で生きましょう。                     (K・Y)

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◆お釈迦さまのみ教えから◆

もし愚者にして愚なりと知らば、すなわち賢者なり。 愚者にして賢者と思える者こそ、愚者というべし。 『法句経』

 その昔、ソクラテスが「無知の知」を言ったように、謙虚にして素直に自分自身を鋭く見つめることは、古今東西を問わず、大切なことなんですね。しっかり、寅さん映画にも散りばめられています。

寅「働くってのはな、博みたいに女房のため子供のため額に汗して、
真っ黒な手して働く人たちのことを言うんだよ。」

さくら「それがわかっているのなら、なぜ?」

寅「そこが渡世人のつれぇところヨ。」

 寅さんはうそぶいてかっこイイことを言っている。けれど、ちゃんと自分の愚かさが解っているし、それでもどうにもならない悲しみがそこにある。。それは、御前さまも見抜いているんですね。

「仏様は愚者を愛しておられます。もしかしたら、私のような中途半端な坊主より寅の方をお好きじゃないかと、そう思うことがありますよ。」

 端的には、さくらさんの旦那・博が、「自分の醜さに苦しむ人間は、もう醜くはありません。」と言っています。

 謙虚に自らを愚者として自覚するとき(なかなかできないことなんだろうけれど)、大愚と自称した良寛さんのように愚禿と自ら名乗った親鸞聖人のように、きっと「佛はひとり我が為に法を説きたもう」という世界が開けるのではないだろうか。

(K・S)



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エっ!ん?
 

 新聞・雑誌等を読んでいると、「えっ!」という文字・言葉にでくわすこと がよくある。例えば、ガラスをビールを飲む時はグラス、またメガネもサングラ ス。鉄は洗濯のシワのばしの時はアイロン、ゴルフの時はアイアン。英語(iron) は同じ発音なのに。古いけど、なしか!と言いたくなる。仏教に関する言葉も かなり「?」マークのものがある。

 【出家と家出】 お坊さんになることを出家と言う。お寺の子であれば、た いがい小学生の頃に出家得度式を行う。まさか仏道に目ざめてとか、心に期する ところがある、なんていうことはなく、ただ師匠である親に言われるがまま本山 へ行くというのが普通である。幼い頃に儀式をしてると、途中嫌がっても時期が くればスムーズに跡取りをするものである。むしろ嫌がる時期があるからこそ痛 み苦しみのわかるお坊さんになれるのである。そうやって心の悩みそして生きる 糧を与えつつ僧俗共に人生を歩んでいくのが出家の一つの目的である。では家出 は、現状逃避である。なんでも解決しようとする時は死ぬほど苦しいものである 。それを放棄して現会いの状態から、逃げ出してしまう。修行をさせていただい ていると思い直し、頑張ってほしい。中には家出して出家する欲張りの人もいる 。

 【水行と行水】 日蓮宗の修行の一環として水の行がある。寒一百日の荒行 は一日七回の水行があり、全身アカ切れになりバスタオルは使えなくなるほどの 肌になる。大変苦しいものである。季節も逆なら言葉も逆である。そう言えば近 頃の行水は子供しかないようで、風情と色気がだんだんなくなってきた。

 【大黒さまと大国さま】 七福神の一人、大黒さま。もともとはインドの神 でマカカラ明王といい、直訳して大黒。近代の大黒さまは、大国主命と大黒天を タシて二で割ったお姿である。名前といい、姿といい類似点が多い。顔は大国主 命をとり、スタイルは大黒天をとっている。

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私の好きなお祖師さまの言葉

◇日蓮聖人のお言葉より
「鳥と虫とは鳴けども 涙落ちず 日蓮泣かねども 涙ひまなし」


 鳥はさえずり、虫は鳴きますが、涙を流すことはありません。しかし、日蓮 聖人は迫害にあい悲しいことは沢山あり、心の中ではいつも涙を落としてました が、泣いたことは一度たりともありませんでした。
 その悲しみの涙を、甘露の涙と受けとめ喜びとしたのです。経王と呼ばれる 法華経を、多くの人々に説法できることに無上の喜びを感じたお聖人でした。
 我々悲しみの多い人生ですが、悲しみ苦しみを喜びに切り変わる心こそが大 事だよと教えています。他宗攻撃をして気性が激しそうですが、実は相手を思い やる優しいお心のお方なのです。(G・T)


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◇法然上人のお言葉より
祈りによって痛みも止み命も延ることあらば、誰かは一人として、やみしぬる 人あらん」
(『浄土宗略抄』『和語燈録巻二』)


 あらゆる神や仏に祈ることによって病が治り、寿命が延びたりすることがあ るならば、この世の中で祈ることにはかかわりなく人は死ぬときには死ぬのです 、と法然上人は一見冷たく突き放したような言い方をしています。
 しかし、病や死という一大事のマイナスをそれによって自分自身が気づかさ れ、念仏と共に今を生きることの大切さを教えておられるのです。念仏に生きる とは、いたずらに死を恐れたり生に対し行きすぎて執着したりすることを捨てる ことだ、とおっしゃられているように思います。(K・Y)
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◇無門慧海禅師のお言葉より
「乾し厥」(『無門関第二十一則』)
 雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師に対し、ある僧が「如何なるか是れ仏」 と質問した。雲門は即座に「乾屎厥」と答えた。乾屎厥とは、糞かきべらの意で ある。 仏と糞とは天地の差がある。然し自分の身体の五臓六腑は糞で出来てお り、自分自身では別にきたないとは思ってないが、一度排泄されると絶対に再び 受けがうことはできない。自分と対立せずに内臓している間はきたないとは感じ ない。仏といえば何か尊く美しい存在であるが、糞といえばけがれた不浄なもの である。しかしその糞のお陰で生きているのが吾が生命でありこの私である。天 地一杯で生かされていきているこのわが生命の叫びを仏といわず何といおうか。 即心即仏を悟らせるための逆説的一大説法である。(S・H)
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◇弘法大師のお言葉より
「法は人に資(よ)って弘まり、人は法を待って昇る。人法一体にして別異な ることを得ず。」(弘法大師空海上人『秘蔵宝やく』)
 教えと私達は相互に結び付いていて影響しあう。人によって教えは広まり、 同時に法によって私たちはを向上へと導かれて行く。本当の信心とは、その人の 生き方と区別がつかないもの、一挙手一投足が教えの具現ではなかろうか。そう 考えると、自分自身の身を引き締めていかねばならないと、私自身反省しきりの 状態です。
とかく今年は宗教が取り沙汰されましたから、改めてこの言葉を仏教者として 噛みしめたいと考えています。(K・S)
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◇親鸞聖人のお言葉より―肉食妻帯について―  
「行者宿報にて設(たと)ひ女犯(にょぼん)すとも、我は玉女の身と成りて 犯せられむ。一生の間、能く荘厳し、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。」
 九歳より二十年間の比叡山時代ののち、生涯の師法然上人に出会う前、親鸞 聖人は聖徳太子が建立し開いた京都・頂法寺六角堂、百日間の参篭を勤めた。そ の九十五日目の暁に、白い袈裟を着けられた救世観音が現れ、夢告を受けられた 。「行者よ、前世の報いによって、どうしようもなく女性との肉体の交わりを抑 えることができないというのであれば、私が玉のような女身となって現れ、あな たの相手をつとめましょう。そして一生の間、よくあなたの命を磨き輝かしてそ の命の終わるときには、導き引いて極楽に生かしめてあげましょう。」(上記現 代語訳)
 この夢告はまさしく人間の性の問題ではあるが、また生死の問題でもあり、 人間にとっては根本の問題である。妻帯を禁じた戒律にあえて真っ向から立ち向 かい公然と結婚なされたのは、それまでの人生の中の暗闇の深い苦悩の堂々巡り から、人間・親鸞として力強く真理を貫く姿を得られた。仏教とは人間のあるが ままの暗闇にぴったりと寄り添い、まるごと人間を救い上げていく道と、親鸞聖 人はその事実を念仏ひとつの法として見いだされた。(M・T)
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◇役行者のお言葉より
「端坐思実相」(たんざじじっそう)(役君伝『柴灯大護摩次第』)
 ただしく姿勢を保ち坐り、この世の中すべてのもののありのままの真実の姿 、本質を思見しなさいということです。
 私たちの現代社会は、あまりの速さで時が移り変わり、さきの見通しもでき ないまま常に不安を感じながら生活しています。今年だけでも阪神での大震災や 東京地下鉄でのサリン事件など起きてほしくないことが次々に私たちの前に姿を 表わしてきます。 そうした時に、私たちはどのように対処したらよいのでしょ うか。一つの答えとして、この『端坐思実相』を実践することなのです。心を落 ち着けて慌てず騒がず状況を正しく直視して的確な判断をすることが大切なこと だ、と思うのです。(K・K)
 ※注 役君・・役行者(えんのぎょうじゃ、小角とも言う。欽明6年634〜 大宝元年701)。別称、神変大菩薩(寛政二年光格天皇より賜る)。修験道開祖 。
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■良寛、賢治、マザー・テレサ■

主よ、私が、

慰められることよりも他者を慰め、

理解されることよりも他者を理解し、

愛されることよりも他者を愛することを、

求めて生きることをどうかお認め下さい。

なぜなら、人は、自らを忘れることにより自らを見出し、

他者を許すことにより、自ら許され、

死することにより、永遠の生命に目覚めるのですから。

(マザー・テレサの祈りの言葉より)

 「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」マザーの姿をTVで観たとき、とても印象的だった。いつも世の中で弱く小さき者に尊きものを見出し続けていた。この映画『良寛』の冒頭にある「軽んじてよいものなどない」というセリフ、いや良寛さんの生き様がマザー・テレサと重なる気がする。

 「ミンナニデクノボートヨバレ」(昼行灯、大愚)た良寛さん。三条の大地震後、三条の市に出て、「止まらぬものは涙なり」とナミダヲナガシ、「死ぬ時節には死ぬがよく候」、コハガラナクテモイイと励ました良寛さんの姿。

 宮沢賢治が法華経の教えに基づいた「雨ニモ負ケズ」の生き方を、良寛さんが禅の教えに立脚した生き方を、マザー・テレサがキリスト教により所とした生き方を、実践した。その拠り所が異なっていても、その実践している姿は、どうしてこうも似通ってくるのだろう。きっと意図してはいないだろうに。そして、それぞれの生きざまの強さは、きっと教えが支えているのだと思う。

 実はこの映画『良寛』を、マザー・テレサの訃報を聞いた後、みなさんより一足先に観させていただきました。観賞した後で、何かに似ている、似ていると感じていたことが、このことだったのです。
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