今年(平成14年)の喫茶説法では、暦(こよみ)についてのお話がございました。暦を見てみますと、一粒万倍日(いちりゅうまんばいにち)という日があります。事始めに用いられ吉日とされていそうです。
さて、一粒万倍とは、「一粒の種子もまけば万倍の粒となるの意で、少しのものもふえて多くの数になるたとえ。」で、少しのものでもそまつにしてはいけないというときなどに使います。また稲の別称だそうです。
この言葉は、報恩経というお経に由来する語です。暦にも取り入れられるのですから、生活の中に仏教が溶け込んでいる証拠になる言葉かもしれませんネ。
一大事だ!と言えば、重大なできごとや容易ならぬ事件の意味で、ちまたでは用いておりますが、これももとは仏教語です。
仏教語本来の意味は、最も重要なこと、即ち、仏がこの世界に出現する一大目的のことです。―極論だけど、私が覚って仏さまになっちゃうてこと。これは確かに「一大事」なことですなぁ。―私たちを救済することが仏さまにとっては一番大切なことですから。
法華経の方便品にある「ただ一大事因縁を以ての故に、世に出現す。」の文より広く用いられることとなったとのこと。また、禅宗では「修行の眼目」の意味で用いることがあるそうです。
「おぅ、いい加減に観念して、一味の居所をはいたらどうだい!」と、なんとなく時代劇の台詞で多く使われているような気がします。この場合、《観念》とは「あきらめること、覚悟すること」の意味で用いられています。
仏教では、「仏や浄土の功徳相などを心に想い描き念ずること」であり、念仏と同義にされることもあるが、口称念仏以外の念仏を指す、とのこと。
そして、お堅いところでは、哲学の用語でもあり、「ある事物を意識したとき、意識のうちにあらわれる意識内容。」を示すイデ―、イデア、アイデアの訳語として《観念》を用います。
なんで、現代で《一味》といえば、「悪事を企てている仲間」といった悪い意味で使われるのだろう。仏教で《一味》と言ったら、崇高なことなのにねぇ・・・。
仏教で《一味》とは、「仏さまの説法は、時、所、人に応じて多様であるが、その本旨は同一であること。」を言い、また、「(海水がどこにあっても塩からく同じ味がするように)現象や本質は、無差別平等であること。」をいう。インドのバラモン教でも解脱の境地を「一味性」と表現することがあるようです。
仏教で用いられるときは、「本来の面目(めんもく)」というそうです。本来の面目とは、人間の生活活動や意識活動以前の生かされてあるいのち(存在)の有り様・姿をいいます。本来的な真の姿といったことになるのでしょうか。突き詰めれば、私たち凡夫にある仏性を指します。きっと今はやりの「自分探し」のゴールは「本来の面目」なんですね。
従って、面目は、あり方、有り様、姿の意味になります。
これが、「めんぼく」と読むようになると、人に合せる顔とか、世間に対する名誉といった意味に変わります。文字はおなじでも、本来の面目からすると、捨て去られるべき名誉とかプライドが、面目(めんぼく)とは不思議なものです。
書いていて、なにか的外れな説明で、面目ない・・・・・。
師走になると、恒例の歳末助け合い托鉢が始まりますが、托鉢のときには、私なんぞはアヤシイ僧侶なのに、快く喜捨していただけるなんて、ホント坊さん冥利につきるなぁ、と殊勝な気持ちになります。
さて、もともと冥利は、仏・菩薩によって知らず知らずのうちに与えられる利益(この場合はリヤクと読みます。)のこと。それが、転じて、広く社会や他人から、目に見えない形でいつのまにか受ける利益や恩恵をいうようになり、ある状態や地位にあることから自然に生まれてくる幸福や幸運を意味するようになりました。
仏教で用いるときは《りちぎ》と読みます。原語の梵語では、「サンヴァラ」と言い、身心を抑制することです。仏教では、過失あるいは悪行を防止するはたらきのあるもの、すなわち善行を意味します。そういうことを実践していれば、ウソや二枚舌なんぞ使わないから、律儀は〈りちぎ〉となって、義理堅く実直で,融通がきかないの意に転じても不思議はないです。
仏教は心を説く教えですが、科学的なことも取り扱ったりしています。 文字通りでは「こまかいちり」になりますが、仏教では、目で見ることのできる最小のもの、非常に微細な物質を言います。ちょっとややこしいですが、1つの極微(ごくみ)を中心に,その六方に6つの極微が集まって、1つの微塵を形作るとされています。極微とは、最も微細なもので、これ以上分割できない最小の実体のことで、ちょうど化学でいう原子のようなものです。こんなことも仏教では考えられていたのです。 原子力のような目に見えないものを扱うには、律儀な人達がしっかりとしていないと、「安全」なんてものはそれこそ、こっぱみじんに砕かれてしまいます。
『広辞苑』では、「生更ぎ」草木の更生することを語源としている。一説によれば、東大寺大仏建立の頃、日本によばれていたインド僧が、ようやく木の芽がではじめる頃、つまり陰暦の二月で寒かったから、寒いの意味を込めて梵語の「キサラヤ(木の芽・若芽)」と、言ったのが、はじまりだそうだ。 「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と西行法師の歌にあるように、桜の花が咲くころだったら、花冷えという言葉もあるくらいだから、寒いですよネ。
「ここだけの話ですが・・・」、なんてのは、信じがたいものですナ。内緒にしておくのは、難しいんで。 この「内緒」はもとは「内証」と表記します。仏教では、自らの心のうちで悟ることで、「自内証」とも言われるそうです。思慮分別によって推測できないということを強調する場合に用いられるとのこと。内証は外からはうかがい知れないから、秘密ないしは秘密の事柄を指す語として用いられ、果ては、家内の事情やら、経済状態やら、妻などまでも意味するようになりました。 雑誌に載ってる「秘湯の旅」なんてのは、載った途端に内緒にはなってないんだけどなぁ。
軽く挨拶(これも仏教語なんだけど)することを、会釈と言いますが、これが結構重苦しく説明しなければならないので、我慢して読んで下さい。 仏典中の異なった説を照らし合わして、その教えの根本に立ちかえって融和させ、矛盾なく説明することが、元の意味です。それが、転じて意見の調和をはかる、相手にうまく対応するなどの意となって、またまた転じて軽い挨拶の意味となったということです。 互いに気持ちよく会釈して、みんなニコニコというには、永い道のりでした。
南無三宝(なむさんぼう)の略で、「なむさん」。驚いた時や失敗した時、 また事の成功を祈る時に発する語です。もとは、三つの宝−佛宝(仏さま)・ 法宝(教え)・僧宝(教えを実践する人々)−に南無(帰依)致します、とい うことで、仏教徒の証、仏教の基本というべき言葉です。この宝の一つを取り 出すと、南無阿弥陀仏・南無釈迦牟尼仏(仏宝)、南無妙法蓮華経(法宝)、 南無観世音菩薩・南無大師遍照金剛(僧宝)とも考えられます。これらを一括 りにすると「なむさん」なわけですから、万能薬みたいにも思えてきます。
スリランカやタイなどの仏教国でも「ブッダン サラナン ガッチャーミ、 ダンマン サラナン ガッチャーミ、サンガン サラナン ガッチャーミ」と 三宝に帰依いたします。
困ったときの神頼みというのは、こういう所にも露わになります。でも、こ の言葉が使われている限り、一番の基本に帰ること、人の心に仏教はあるんだ と思いませんか。
特に禅宗で使われる言葉です。「勘」はしらべる「弁」は見分けるの意味で、 相互に見解を試み,悟りの浅深を調べただす問答のこと。早い話、お師匠さん が弟子と個人面接をして、弟子の考えや心を吟味して見きわめることです。現 代風に言えば「免許取得試験」なんでしょうか?その技量と器量が適格と判断 されて「免許」をもらうものですから。「許」という字は「ゆるす」ですし、 そんな所から勘弁する=ゆるすとなったのかもしれません。
ま、なんとなく危うい説明です。間違っていたら、ご勘弁を・・・
「がくせい」と読むと今風な呼び方、いわゆる学校、特に大学で勉強してい る者になりますが、「がくしょう」と読むと、仏教の教理を学ぶ僧侶を言います 。江戸時代には、各宗派が学問所を作り、現代の宗教系大学へと繋がっていきま す。 特に、遣唐使で同行して往復する学問僧を「還学生(げんがくしょう)」 と言い、長期間にわたり中国で学ぶ僧を「留学生(るがくしょう)」と呼びまし た。今使っている「留学生(りゅうがくせい)」という言葉も仏教から 出てき た語です。平安時代はじめの同じ遣唐使で、前者には伝教大師(最澄さま)が、 後者には弘法大師(空海さま)が、学生の中におられました。
学生さんは勉強をして高い教養と広い知識を身に付けるわけですが、仏教で 知識というと、インテリジェンスとは違う意味になります。「真の友人」という 意味します。特に「善」という字をつけて「善知識」と言いますと、「仏教の正 しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人」になります。 知識・教養だけ になってしまうと、「さしずめ、インテリだな」と言われそう。
寅さんの恋するマドンナたちはいずれも美人さんばかりで、「あばたもえく ぼ」とは言えませんネ。寅さんは、「マドンナに幸せを与え導いてくれる人」と いう役目の多いこと。 「あばた」は、これまた、仏教語でして、原語のサンス クリットでは「アルブダ」で、これが訛って「あばた」になったそうです。八寒 地獄の一つでもあります。余りの寒さに水疱つまりあばたができるので「アブダ (=あばた)地獄」というそうです。 寅さんも恋の痛手にきっと地獄のような 苦しみを味わい、旅に出ていくのなら、そんなに惚れなければいいのに、なんて 言ったら、「それを言っちゃオシマイよ!」て言われそう。
もとは、寺院の役職で、お坊さんたちの雑事や寺院の事務を取り扱う役を言 います。大衆に奉仕するところから【悦衆(えっしゅ)】などとも呼ばれたそう です。古参の者がその役にあたり、隠徳を積むのだそうです。この知事が中国の 地方長官の名称に転用され、それが日本の知事の語源ともなりました。大きな寺 院で沢山の僧侶がいると、やはり、行政のような仕事も必要になるのでしょうね 。
さて、塔と聞くと、みなさんは何を想像しますでしょうか?グローバル・タワ ーか別府タワーか十文字原のテレビ塔か、はたまた、お寺の五重の塔か、仏舎利 塔か。 実は、原語は「ストゥーパ」、漢字で音を写して「卒塔婆」、「卒」を 略して「塔婆」「婆」も略して、「塔」となります。そう、お墓でよく見かける 木の板の卒塔婆です。この卒塔婆は、大日如来を標示する五輪塔を型どったもの です。 一方、原語の方も「ストゥーパ」から「トゥーバ」そして英語圏にゆく と「タウア(タワー)」となる次第。 洋の東西を問わない、これこそ、グロー バルな言葉ですネ。
末は博士か大臣か、なんて云ったのは昔のこと。世の栄達で高い位に上がるこ とを一般で用いるけれども、お坊さんになることを「俗なる世間を出る」ので「 出世」とか「出世間」という。ところが、「世間に出現する」という意味で「出 世」を使うと、仏さんが私たちを救い導く為にこの世においでになることになる 。お坊さんになるもよし、仏に会うもよし、さあ、あなたはどの出世を望みます ?
「人をコケにしやがって!」なんて言うときの「コケ」です。当世の使い方は 、馬鹿にする、あなどる、といった意味ですが、元の意味は「実がない、いつわ り」です。早い話、真実でないことです。聖徳太子も「世間虚仮 唯仏是真」と おっしゃてますし。なにが真実か、見分けるのは難しいようです。なんか、この ページ、コケおどしみたいな説明・・・・。
「おくこう」というのが訛ってこう読むようになりました。なぜ、「めんどう くさい」の意味になるのか考えてみましょう。《劫(こう)》というのはインド の時間の単位で、天文学的な時間、要するに大変永い時間です。よく説明される 例としては、芥子劫の譬えでして、一辺が6キロメートル(くらいだろうといわ れてます)の立方体に芥子粒がぎっしり詰まってまして、それを百年に一度一粒 づつ取ってゆき、芥子粒がなくなってもまだ一劫は終わらない、というものです 。別のインドの書物(マヌの法典)によりますと、一劫は四十三億二千万年に換 算されるようです。この一劫の一億倍が億劫になります。芥子劫の譬えを一億回 繰り返すのを想像してみてください。
私は四十三億二千万×一億の計算すらおっくうですので、あとはみなさんで、 どうぞ。
劫と反対の語です。時間の最小単位でして、これも現在の時間の単位に換算す ると、七十五分の一秒にあたるそうです。仏教の無常観とは徹底したもので、た った一刹那ですら無常で、ものごとは「生じて、滅する」のだと言っております 。そうすると、過去や未来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるという「 刹那主義」は仏教的には賞賛されるのかしら? だって、「過去を追うな。未来 は願うな。過去は既に捨てられらた。そして未来はまだやってこない。だから現 在の事柄を、それがあるところにおいて観察し揺ぐことなく動ずることなく、よ く見きわめて実践せよ。」とお経(一夜賢者経)にあるのだから。うーん、難し い!
■道場で飲んだ初恋の味は醍醐味だった!?
ところで、菩提道場を意味する梵語「ボーディ・マンダ」の「マンダ」も醍 醐味の「マンダ」も同一の語でして、他にも「本質・エッセンス」という意味が ありまして、「さとり(菩提)の本質」を象徴する空間を示すと、『覚りを開い た場所』となるでしょうし、また、醍醐味は牛乳のエッセンスです。道場と醍醐 味という似ても似つかぬ言葉が語源を一にするとは驚いてしまいます。
■ライオンと仏教
ライオンは獅子と申しますが、仏典で見かけるときはケモノ扁のない「師子 」で登場致します。仏さまや菩薩さまと、百獣の王たるライオンとに共通する「 王者たる勇猛さ、威厳」というものを比喩するときに用いるというわけです。そ れでは、沢山あるうちからいくつか用例を紹介致しましょう。