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ちょう さんしゅう

長 三洲

ちょう さんしゅう

1833.11.3(天保4.9.22)〜 1895.3.13(明治28)

幕末・明治期の漢学者、書家

埋葬場所: 12区 1種 17側 22番

 豊後国(大分県)出身。本姓は「長谷」氏であり単称して「長」という。幼名は富太郎、通称は光太郎、名は莢(ひかる)。 字は世章。号を三洲といい、別号に蝶生、韻華、秋史、紅雪などがある。父は儒家の長梅外(同墓)の第三子長男として生まれる。
 幼い頃から父に薫陶を受け、1848(嘉永1)15歳の時に漢詩人の広瀬淡窓の威宜園に入り神童といわれた。なお、この時、長谷主馬と名乗っていた。 18歳で淡窓の弟の広瀬旭荘(子の林外は21-1-16-1)の大坂の塾に招かれて塾長となり塾生に教授した。詩・書・画をよくしたが、とくに書に秀れた才を示し、顔真卿の風をしたい、重厚な書風を確立した。
 1957(安政4)尊王攘夷論に傾倒するようになり、旭荘の元を離れ、国事に奔走する。1864(元治1)幕府の第2次長州征討に参加し、1868(M1)長州奇兵隊に加わり、戊辰戦争には奥羽征討に転戦した。 維新後、木戸孝允の知遇により新政府に出仕、1870太政官権大史、大学少丞となり、翌年、清国に赴く。その後、文部少丞、文部大丞、教部大丞、文部省学務局長、侍読、東宮侍書等を歴任した。 この間、1877『小学校習字本』を刊行。明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を正しく位置づけた第一の功労者である。
 1879(M12)官を退き、詩文書画に専念。1880斯文学会を創立した。木戸孝允の奏議の文章は多く三洲の手になるという。詩集に約2000首ある『三洲居士集』は全11巻に及ぶ。享年61歳。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典など>


墓誌

*土円墳墓に墓標「長氏塋墓」。右側に墓誌が建つ。「梅外允」と長梅外から刻みが始まる。梅外の妻の竹香(M19.8.28没)、長古雪の「古雪冰」と続き、長三洲は「三洲莢」と刻む。長三洲の妻は蝶子(嘉永3.8-S8.5.29:福岡県出身・八尋篤兵衞の長女)。長三洲の長男の長寿吉は「壽吉」と刻む。長寿吉の妻は初枝(M20.3-S31.10.18:旧姓は末弘、末弘巌石の娘、法学者の末弘巌太郎は弟)。長三洲の二男は長世吉。長世吉の妻は文子(M28.7-S38.10.8:東京出身・榊原浩逸の二女)。平成に入り新しく墓誌がもうひとつ建ち、長壽吉の長女の環(M40.12-H6.2.20)らが刻む。

*長梅外、長三洲、長古雪ら明治期に亡くなった人物たちは青山霊園に埋葬され、その後、多磨霊園に改葬された。

*長三洲の戒名は刻まれていないが「幽幻庵清韻三洲居士」である。

*木戸孝允の養子の木戸正二郎や木戸孝正、それ以降の木戸幸一、木戸孝彦ら、侯爵の木戸家は18区1種3側にある。なお、木戸孝允の別名は桂小五郎である。墓所は京都市東山区・護国寺。



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