兵庫県出身。六高を経て、1928(S3)東京帝国大学法学部卒業。同年、農林省に入省。
満州国興農部農産・糧政各司長、'42満州国の総務省企画処長、農林省総務・資材各局長、良糧管理局長官、農林次官 初代農林事務次官などを歴任。
この間、蚕糸局の繭糸課で三島由紀夫(10-1-13-32)の父である平岡梓(10-1-13-32)と同僚となっている。
戦後、'47.4.20(S22)第1回参議院議員選挙に全国区から無所属で出馬し当選。
この選挙での第一党になったのが日本社会党(47議席)であり、他に日本自由党(39)、民主党(29)、同民協同党(10)、日本共産党(4)であった。
しかし、それら党とは別に無所属議員が108人を占めていた。その無所属議員の中で貴族院議員転身組を中心に衆議院と一線を画した会派を作る動きが出てきて、保守系を中心とした72人が集まり「緑風会」が結成され、第一回参議院本会議では92人に増大し最大勢力となった。
楠見もその院内会派の緑風会に属した。主に貴族院議員転身者、官僚出身者、文化人が緑風会に所属した。
なお、緑風会はあくまでも参議院のみの会派として、衆議院に立候補を立てず、政権獲得も目標としなかった。
緑風会メンバーには、松平勇雄(4-1-21)の叔父である松平恒雄、村上義一(22-1-22)、宮城タマヨ(22-1-68-1)、井野隆一(9-1-13-31)の父の井野碩哉らがいる。
'50.6.4第2回参議院議員選挙で2期連続当選し、参議院農林委員長をつとめた。
'53第3回参議院議員選挙で当選したが、栃木県佐野市の投票所において、平林剛の所属政党名が社会党ではなく、共産党と誤って表示されていたことが明らかになり、'54.9下位当選者6名の当選が取り消された。
翌月、佐野市において、全国区の再選挙が行われ、その結果、前年選挙で最下位当選者であった楠見が、平林の票を下回ったため落選となった。
'56.8.15〜'66.11.21農林中央金庫理事長を務めた。享年90歳。
*墓所正面に二基。左が「楠見家之墓」。右が五輪塔。右側に墓誌があり戒名は瑞宝院寛厳弘義居士。行年は92歳と刻む。
*墓誌には楠見家本来の墓がある和歌山市常住院の祖母の霊位、大阪市三津寺の楠見家の墓の曽祖父母・大伯父母・大叔父の各霊位、石山家の墓の祖父・伯父の各霊位、神戸市善光寺の父・母・兄・二男・四男の霊位を、この地に建塔・建墓し改葬し、常住院と三津寺所在の各霊位を法塔におさめるとともに善光寺所在の各霊位をここに合祀するというようなことが刻まれている。
改葬は昭和五十年九月吉日と刻み、楠見義男がおこなった。また、平成二十年十月吉日には東京都武蔵野市吉祥寺に在る安養寺に埋葬されていた楠見きぬゑの霊位、楠見吉弘の分骨を合わせて合祀した旨が刻む。
未確定情報であるが、楠見吉弘は味の素ゼネラルフーズ社長、改葬を行った楠見光弘はJAL経営企画室副室長を務め航空評論家で活躍されている方ではなかろうか。
*同墓所には、楠見義男の子で日産「シーマ」開発責任者を務めた楠見記久も眠る。