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いの りゅういち

井野隆一

いの りゅういち

1920(大正9)〜 2001.7.1(平成13)

昭和・平成期の農業問題研究者

埋葬場所: 9区 1種 13側 31番

 東京出身。父は政治家の井野碩哉。東京大学経済学部卒業。東京経済大学教授、日本農業研究所研究員。 日本の農業、農政を世界資本主義の動向とアメリカによる支配の中で分析し、農政の民主的転換を積極的に提起した。 その研究は『日本農業 存亡の危機と展望』『戦後日本農業史』に纏められ、1993(H5)、97(H9)の2度、野呂栄太郎賞を受賞した。 農業・食糧問題の理論・政策活動にあたって、科学的社会主義にもとづく変革の立場を一貫して堅持。 その際、理論と運動の弁証法的な相関にとりわけ留意し、自らもできるだけ、その運動に係るよう努めた。 農民連の前身「農民運動の全国センターを考える懇談会」(農民懇、'84〜'89)での常任世話人のほか、農民連発足にあたって顧問に推挙された。 また、日本共産党員として、53年間にわたり活動し、八王子日本共産党後援会会長などを歴任した。肺小細胞がんのため死去。享年81歳。

<新聞「農民」2001.7.16など>


いの りゅういち いの りゅういち
*墓所内入口左側に「井野隆一先生を偲ぶ碑」が建つ(東京経済大学 井野農経ゼミ同窓かかしの会 2003年7月建之)。

*墓所内の墓石は「久保田清」と刻む墓石一基である。久保田清は井野隆一夫人の美也子の実兄である。


井野碩哉 いの ひろや
1891.12.12(明治24)〜1980.5.19(昭和55)
昭和期の官僚・政治家
 東京出身。東京帝国大学卒業後、農林省に入省し、蚕糸局長、初代企画庁次長、農林次官などを歴任。 第2次・第3次近衛内閣の農林大臣として入閣。1941(S16)東条内閣でも引き続き農林大臣、拓務大臣も兼務した。 '42衆議院議員に当選し、日本肥料理事長となる。'45護国同志会結成に参画。農林大臣を務めていた戦時中、食糧管理法を成立。 この食糧管理法をめぐり、実子である井野隆一が食糧管理法に反対し、廃止を求め、食糧制度を研究した。
 戦後、公職追放。解除後、'53自由民主党で参議院議員選挙(三重県選挙区)に出馬し当選。'59第2次岸内閣改造内閣で法務大臣。 '65勲一等瑞宝章授章。'67第三十代弾劾裁判所裁判長に就任。'71政界を引退した。'78「藻汐草―井野碩哉自叙伝」を発刊。

<コンサイス日本人名事典など>


*井野碩哉は多磨霊園には眠っておりません。


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