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かわにし じつぞう

川西實三

かわにし じつぞう

1889.1.2(明治22)〜 1978.3.3(昭和53)

大正・昭和期の内務官僚、知事、
戦争勃発時の東京府知事、労働問題の権威

埋葬場所: 19区 1種 7側 13番

 兵庫県武庫郡六甲村(神戸市灘区)出身。川西種蔵の二男として生まれる。神戸第一中学校を経て、第一高等学校に入り、内村鑑三(8-1-16-29)門下の柏会に所属した。神戸一中の後輩だった矢内原忠雄(2-2-1-19)を内村に紹介する。
 1914(T3)東京帝国大学法科大学独法科卒業。高等文官試験に合格し、卒業後は埼玉県地方課に勤める。静岡県駿東郡長、内務事務官を経て、'21 国際労働機関帝国事務所政府代表随員となり、スイスのジュネーヴ駐在として着任した。第2回、第7回、第10回の国際労働会議にジュネーブ帝国事務所事務官の肩書で顧問として参加。
 帰国後は内務省社会局書記官、労政課長、職業課長などを歴任。昭和初期の不況時代、労働手帳を作り、海外移住を奨励した。'32(S7)内務省社会局の社会部長 兼 保険部長となり、医師会の強い抵抗を押し切って国民健康保険法を立案した。
 '36.4.22 第33代 埼玉県知事に就任〔在任:1936.4.22-1938.4.18〕。'38.4.18 第25代 長崎県知事に就任〔在任:1938.4.18-1940.4.9〕。'40.4.9 第26代 京都府知事〔在任:1940.4.9-1941.1.7〕。
 '41.1.7 第33代 東京府知事〔在任:1941.1.7-1942.1.9〕。東京府知事に着任した時には、戦時体制が強化され、太平洋戦争が勃発した('41.12.8)。'42.1.9 退官し、東條英機の命で大日本婦人会理事長、大日本育英会理事長を務め、国威発揚に努めた。この時、妻の田鶴子(同墓)も愛国婦人会東京府支部長として太平洋戦争遂行の先頭に立たされている。なお、太平洋戦争勃発時の東京府知事は川西實三であり、終戦時の時の東京府知事は西尾寿造(16-1-8)である。
 戦後、'46 公職追放となる。'49.11 日本ILO協会会長に就任。'51.8 公職追放解除後、'52.6.19 臨時医療保険審議会会長、'56.9.1 初代 社会保険審査会委員長を就任。'62.7.7 財団法人三島海雲記念財団の設立発起人となる。'64.11.3 銀杯一組を賜る。'65.2.13 第9代 日本赤十字社社長に就任(〜'68.2.13)。同.2.23 総理府中央防災会議委員を務める(〜'68.4.9)。
 その他、恩賜財団済生会理事長、東京厚生年金会館長、済生会理事長、大日本育英会理事長、日本職業協会長なども務めた。'69.5.7 労働問題の権威として知られ、これまでの功績により勲1等瑞宝章受章。'74.6 社会保険新報社から『感銘録』を刊行した。
 戦争勃発時の東京府知事であったこともあり戦争協力を行ったが、一家で矢内原忠雄に師事した無教会主義クリスチャンであり、「聖書之研究」読書会や家庭集会に死の床につくまで参加した。享年89歳。

<日本歴代知事総覧>
<政治家人名事典>
<キリスト教人名辞典>
<人事興信録など>


*墓石の前面「みつばさのかげに 川西家墓」、裏面が墓誌となっており、1歳で亡くなった長男の信三(1919.3.19-1920.7.3)、死産の二男の早男(1920.9.13:死産)、21歳で亡くなった三男の瑞夫(1922.3.27-1943.2.13)のみが刻む。墓所左側に墓誌が建ち、この三名から刻みが始まる。人事興信録では瑞夫が長男とされているが、実際は3男である。

*妻は田鶴子(本名は田廖法1918.4.6(T7)富士見町教会にて結婚した。田鶴子の旧姓は三谷。田鶴子の父方義姉に教育者の三谷民子、長兄に法哲学者の三谷隆正、次兄に外交官・侍従長の三谷隆信であり、三谷家の墓所は19区1種1側。また姉の妙子は聖書学者の山谷省吾に嫁ぐ(共に11区1種16側17番:信濃町教会員墓)。

*川西實三と田鶴子は最初の男子三名を早くに亡くしたが、その後、1女2男を儲ける。長女の川西薫(1927.6.12-2022.3.7:同墓)は女子学院理事。4男の川西剛(1929生)は東芝副社長・日本半導体の父。5男の川西進(1931.10.24生)は英文学者・東京大学名誉教授。


川西 剛 かわにし つよし
1929(昭和4)- ご健在
昭和・平成期の実業家、日本半導体の父
 神奈川県逗子市出身。父は川西實三、母は川西田鶴子。矢内原忠雄(2-2-1-19)が主催する自由ヶ丘家庭集会に通う。
 1952(S27) 東京工科大学電気工学科卒業。東京芝浦電気(東芝)に入社。'81 半導体事業部長。80年代に半導体事業を率いた当時は、日本の半導体が世界の売上高上位を独占していた栄光時代だったこともあり、「日本半導体の父」と称された。'84 取締役、'90 副社長に就任。
 日米半導体交渉に臨み、米アプライドマテリアルズや中国の中芯国際集成電路製造(SMIC)の社外役員を歴任した。SSIS会長を務めるなど、日本半導体産業の重鎮として活動。'94(H6) 退任。2000 華邦電子(ウィンボンド・エレクトロニクス)の役員なども務めた。
 著書に『わが半導体経営哲学』(1997)、『電子デバイス未来論−二十一世紀の液晶・半導体はビジネスチャンス』(1999)、『知られざる技術大国イスラエルの頭脳』(2000)があり、『半導体大事典』などの共著もある。

<著者略歴など>


川西 進 かわにし すすむ
1931.10.24(昭和6) - ご健在
昭和・平成期の英文学者
 神奈川県逗子市出身。父は川西實三、母は川西田鶴子。矢内原忠雄(2-2-1-19)が主催する自由ヶ丘家庭集会に通う。
 第一高等学校から、1954(S29)東京大学教養学部教養学科イギリス科を卒業し、大学院に進む。'56-'59 アマースト大学卒業。帰国し大学院に戻り、'62 東京大学の大学院英文科博士課程中退。
 '66 東京大学教養学部助教授を経て、'81 教授。'92(H4)停年退官し名誉教授。同年 フェリス女学院大学教授。2002 退官し名誉教授。
 共著に『イギリスの全体像を求めて』(山内久明共編著:1991)、『詩人の王スペンサー』(福田昇八共編:1997)。翻訳も多数出しており、'65『奇跡へのあゆみ ヘレン・ケラー自伝』、'68『ヘンリー・ジェイムズ短編選集』、'78『芸術の森のなかで ケネス・クラーク自伝』、エドマンド・ゴス『父と子−二つの気質の考察』など、自伝系を多く刊行した。

<現代日本人名録など>



第486回 太平洋戦争勃発時の東京府知事 国威発揚 労働問題の権威
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