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おおむら たくいち

大村卓一

おおむら たくいち

1872.2.13(明治5.2.13)〜 1946.3.5(昭和21)

明治・大正・昭和期の鉄道官僚、満鉄総裁

埋葬場所: 19区 1種 7側

 福井県出身。植村甲午郎(8-1-13)とは親戚関係。息子で二男の大村英之助は映画プロデューサー、日共トラック部隊長。 四男の大村潤四郎(同墓)はリハビリテーション医学者で日本のリハビリテーションの進歩に貢献した人物である。
 1896(M29)札幌農学校工学(土木)科卒業。北海道炭鉱鉄道会社に就職し、1898追分保線事務所長、1902欧米諸国およびシベリア鉄道事業視察のため出張。 '06鉄道国有法により社線は国有鉄道に買収となって、北海道鉄道作業局岩見沢保線事務所長、翌年帝国鉄道庁北海道鉄道管理局理局工務課長となり、鉄道と港湾との一貫した運営の持論にもとづき小樽に鉄道の臨港設備を計画、またラッセル除雪車をアメリカより輸入するために尽力した。'13(T2)技術課長、'15北海道鉄道管理局長心得を兼務する。
 '17ロシア十月革命によってソビエト政権が樹立。それに伴って翌年、列強のシベリア出兵宣言が行われ、列国管理委員会(シベリア鉄道の保安と運転の確保を目的とする日・英・米・仏・伊・支・白露の委員会)の日本側委員として参加し、'20支那鉄道の技術統一委員会の日本側顧問として列強委員と折衝、'21黄河橋梁設計審査委員会委員。 '22山東鉄道引継委員会委員長となり、翌年、同鉄道の管理を中国に引き渡す。'25.5.26(T14)〜'32.9.20(S7)初代朝鮮総督府鉄道局長に就任し、朝鮮鉄道設計12か年計画を立案し、恵山線、満浦線、東海線、慶全線など、拓殖鉄道として次々と起工した。 '32(S7)満州鉄道を管理するため現職のまま新設の関東軍交通監督部長(陸軍中将待遇)に推され、'35南満州鉄道株式会社副総裁。'37鉄路総局長兼務。この間、'34勲一等旭日大綬章受章。
 '39.3.24(S14)〜'43.7.14(S18)第15代南満州鉄道総裁に就任。辞任時は「懸案を解決して心残り無し」という言葉を残す。 '45第3代満州国大陸科学院院長に就任したが、同年11月27日満州にて八路軍に抑留され、海龍の病院で客死した。享年74歳。正4位。 著書に回顧録『大陸に在りて』('44)、追悼誌に『大村卓一』('74)がある。
 内村鑑三(8-1-16-29)を慕うクリスチャンで、高潔なる人格とその博識は広く知られ、明治・大正・昭和の三代にわたり鉄道一途に生き、北海道および大陸での鉄道への貢献は大きい。特に大村が育てた鉄道防雪林は、今なお北海道の鉄道輸送を守る。

<土木人物事典など>


*多磨霊園に眠る歴代南満州鉄道(満鉄)総裁は、第10代総裁〔1927年7月19日-1929年8月14日〕の山本条太郎(11-1-1-3)、第12代総裁〔1931年6月13日-1932年7月6日〕の内田康哉(11-1-1-6)がいる。

*墓石正面に十字を刻み「大山卓一之墓」。裏面「昭和二十一年三月五日 於 満州 海龍 歿 七十四歳」と刻む。墓石を挟み墓誌が建つが大山卓一の刻みはなく、左側墓誌に息子でリハビリテーション医学者の大村潤四郎の刻みが見れる。


大村英之助 おおむら えいのすけ
1905.10.13(明治38)〜 1986.3.23(昭和61)
昭和期の映画プロデューサー、社会運動家
 北海道出身。本籍は東京都渋谷区。父は満鉄総裁などを務めた大村卓一で、その二男として生まれる。植村甲午郎(8-1-13)とは親戚関係。
 1929(S4)東京帝国大学経済学部卒業。在学中に共産党に入党し、その後幾度も検挙された経歴をもつ筋金入りの活動家であった。 正規の日本共産党中央委員会特殊(軍事)財政部長であった時に、文化映画の代表的な製作会社である芸術映画社を創立し社長に就任。 「機関車C57」「ある保母の記録」などの記録映画の製作や、雑誌『文化映画研究』を刊行した。 '32初冬に英之助を中心に、木村荘十二監督で進歩的な映画製作を目指して音画芸術研究所を設立。
 '57摘発された「日共トラック部隊」(地下特殊財政部)の初代隊長として話題になった。'84自由民権百年記念映画「秩父事件」の監修が最後の仕事。 日本移動映写連盟会長、日本民主主義文化連盟理事長なども歴任した。享年80歳。

<現代日本人名録 物故者編>
<森光俊様より情報提供>


*大村卓一の墓所内の墓誌には「大村英之助」の名は刻まれていない。現在墓所を調査中。


【トラック部隊】
 正規の名称は「特殊財政部」。トラック部隊とは、共産党が企業の設立、乗っ取り、収奪、破産をさせたり、その企業の資金を党資金に横流するなど、中小会社から物資や財産を取り込もうとしたかなり過激な秘密行動組織隊である。 党組織の財政活動は表と裏に二重されており、その裏の特殊財政部がトラック部隊であった。 つまり、トラック部隊は、当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実となっていた。 「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており、今日でも実態は解明されていない。
 '51(S26)頃、駐日ソ連代表部のシバエフMVD(ソ連内務省)大佐らから、日共の活動資金を受取っていた暗号名「ロン」と呼ばれる人物が大村英之助であったとされる。 '56(S31)暴露されたことにより繊維研究所事業部事件が起こり、トラック部隊の存在が表面化した。
 このトラック部隊にも関わり、主に人民艦隊を秘密裡に指揮していた党中央海事部最高責任者は岡田文吉(19-1-31-2)である。 なお、日本共産党のトップは徳田球一(19-1-31-2)であり、徳田と共に獄中で戦い共産党の地下活動の中心人物の志賀義雄(25-1-76-1)も多磨霊園に眠る。


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