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いしかわ げんざぶろう

石川源三郎

いしかわ げんざぶろう

1866.7.27(慶応2)〜 1956.12.7(昭和31)

明治・大正・昭和期の実業家、
史上初のバスケットボールゲーム参加者

埋葬場所: 14区 1種 7側

 群馬県館林市出身。館林藩士の石川喜四郎の三男として生まれる。父は二年後に戊辰戦争で戦死。1876年(M9)母の郷里である東京に移転。
 1886(M19)渡米。サンフランシスコのウェストミンスター・プレップスクール(大学進学予備校)に入学。 9月にサンフランシスコ日本人YMCA(ヘイト青年会)発足に参加。1888在米日本人長老教会の3長老のひとりに選出される(〜90、93〜96)。 1889サンフランシスコのPacific Theological Seminary(神学校)に入学。1890(M23)国際YMCAトレーニングスクールに入学。 同校のJ.ネイスミス教授が創始したバスケットボールが1891(M24)12月21日に行われた。 これはバスケットボールの史上初のゲームであり、源三郎はその試合に参加。1892卒業し、サンフランシスコYMCA部長に就任。 同年末の天長節の翌日、式典会場で交わした会話より翌年「桑港新聞」で不敬発言と告発する記事を掲載される。 遠征社が臨時会を開催し調査をするも、源三郎は不敬発言を否定。
 1901カナダ出身のメアリ・C・マクレーと結婚し東京に戻る。 翌年、東京政治学校で経済学講師を経て、1903三井物産に入社し、二年後ドイツのハンブルグ支店の総支配人となる。 1906長女のアケミ誕生。1914(T3)第一次大戦勃発、1917戦局が悪化し滞在が困難となったため源太郎は東京に戻った。 しかし、妻と娘は妻の故郷カナダのオンタリオ州アレクサンドリアへと向かう。翌年終戦したが妻と娘は東京に戻らず。源太郎は三井物産を依願退職。 1923国際無線電話社代表、1924NHK理事会のメンバー〔1934(S9)もメンバー〕歴任。 1952.12.4ドイツで生き別れとなっていた妻のメアリがカナダで死去。1956源三郎は代々木(富ヶ谷)にて死去した。

<「スプリングフィールド大学のボブソン図書館による資料」
「館林市教育委員会資料」『石川源三郎について』HP>
<fixx様より情報提供>


墓石裏面

*館林市教育委員会資料では1958(安政5)生まれと書かれている。
*長男は丸山姓だが、墓は石川家。
*墓石裏面に他の埋葬者と共に、石川源三郎の名前が刻む。


【不敬事件】
 当時の日本は独伊のヒトラーやムッソリーニ礼讚一色で、親英米の人々や平和志向者は「自由主義者」として社会的悪者の烙印を押されていた。 したがって思想統制が一段と厳しく、とくに新興宗教、類似宗教に対しては社会不安を助長する、不敬罪に当たるなどと当局は眼を光らせていた。
 多磨霊園に眠る人物で不敬罪になった人物には、美濃部達吉(25-1-24-1)と内村鑑三(8-1-16-29)などがいる。 美濃部達吉は天皇機関説が反国体的だと議会で問題にされ天皇への不敬だという理由。 内村鑑三は天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、嘱託教員でキリスト教徒であったので軽く頭を下げてすませ礼拝を拒んだことが非国民とされ不敬罪になった。


【YMCA】
 「YMCA」とはYoung Men's Christian Associationの略称で日本では「キリスト教青年会」と訳す。 多磨霊園にはYMCAに携わった人物が多く眠る。
 湯浅治郎(7-1-15)、小崎弘道(8-1-7-1)は東京基督教青年会の創立者である。 社会事業家の生江孝之(14-1-22-15)は東京基督教青年会の理事を務めた。 キリスト教指導者として著名な本多庸一(4-1-35-1)も参加した経験を持つ。 女性では植村環(1-1-1-8)が日本YWCA<キリスト教女子青年会>会長を務めた。 また、大森兵蔵(20-1-10)はYMCA時代に習得したバスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。 史上初のバスケットボールゲームに参加した石川源太郎とバスケットボールを日本に紹介した大森兵衛、二人が同じ霊園に眠るのも因果を感じる。


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