岡山県出身。マサチューセッツ州スプリングフィールド国際YMCAトレーニングスクール
(現在のスプリングフィールドカレッジ)に留学し卒業後、YMCA体育教授となった。
1908(M41)学生時代にアメリカで習得したバスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。
1911(M44)IOC委員に任命された嘉納治五郎が日本のスポーツ全体を統括する機関が必要であると解き、大日本体育協会を設立した際にそのメンバーに抜擢された。
そして、翌1912に行われたストックホルム五輪に、陸上の三島・金栗2選手と役員3人を派遣したのである。
スウェーデンのストックホルム第5回オリンピック大会が開催され、アジアから日本が初参加した際、監督として参加。
日本選手団は、金栗四三(マラソン・途中棄権)がプラカードを持ち、旗手を三島弥彦(短距離・途中棄権)がつとめ、以下、嘉納治五郎団長、大森兵蔵監督、田島京大教授、内田公使が入場行進した。大会の帰途アメリカで肺結核のため死亡した。
なお大森兵蔵の墓は雑司が谷霊園[1-2-3] に本墓があり、多磨霊園の松田家には分骨されている。墓所内の外柵に埋め込まれ回転する丸石の墓誌に名前が刻む。