東京出身。政治家の冨田幸次郎(同墓)の子。1922(T11)早大第一高等学院在学中、陸上競技部に籍を置くかたわら有志をつのってバスケットボールの機械科チームをつくる。
前年に中山克己が建築科チームを作っており、お互いに対抗試合を行った。毅郎や中山がまだ知名度が低かったバスケットボールに注目する動機となったのは、'20成城中学でバスケットボールを経験した早稲田大学生の浅野延秋がきっかけだった。
'23(T12)5月それ迄の活動が認められ、早稲田大学バスケットボール部として正式に体育会に承認された。
早稲田大学高等学院バスケット部創設に携わる。創設メンバーには浅野延秋、中山克己の他に、李相佰(早稲田大学バスケットボール監督や協会常務理事などで活躍。
韓国人であり、日韓バスケットボール競技大会の李相佰杯争奪と名前が残る)などがいた。
'27(S2)毅郎の金銭調達の尽力により米国遠征に成功。この米国遠征により米国バスケットボール技術の紹介、導入はその後の日本バスケットボールの技術の発展に大きく貢献した。
'30協会の前身である大日本バスケットボール協会の創設、理事長等を務める。'45毅郎を中心に全国協会設立準備委員会が組織され、日本バスケットボール協会を再発足させる。同年12月に規則書発行に着手した。
これまでバラバラで行なわれていたルールを正規のアメリカンルールを翻訳し統一を目指した('61完全に国際ルールに準拠)。'47改組後は、日本バスケットボール初代理事長となる。その後、最高顧問、常任顧問を歴任。
早稲田大学バスケットボール部OB会(早大RDR倶楽部)副会長等も務めた。戦後のバスケットボール普及と発展に力を尽くした。勲4等。急性肺炎で死去。享年81歳。
*墓所正面に冨田幸次郎の墓。両サイドに墓誌があり、左側の墓誌に富田毅郎の名が刻む。また左側に富田毅郎碑が建つ。
※墓石等では「富田」となっているが、戸籍では「冨田」となっており、正式には「冨田」が正しい。「ワ冠の冨は俗字だとの事で、国の文書(例えば、叙位叙勲の場合等)では、富に直ります。」となっているようです。ある辞典では、日本一の富士山にあやかろうと、富の字を選ぶとき、つつましく謙虚にというところから、一角減じ、ワ冠の冨としたと有るそうですという、情報のようです。
【多磨霊園に眠る人物とバスケットボール】
バスケットボールは、冬の時期でも室内でアメリカンフットボールのような激しさあり盛り上がるスポーツができないものかと、カナダ人のジェームズ・ネイスミスが一人で考案した競技である。
1892年1月20日に史上初のバスケットボールゲームが行なわれた際に、選手として参加した日本人がいる。それが当時YMCAの学生であった石川源三郎(14-1-7)だ。
1908年にバスケットボールを日本に紹介したのはYMCA体育教授をしていた大森兵蔵(20-1-10)である。そのバスケットボールのルール統一や技術の発展、広く一般への普及の尽力につとめたのが冨田毅郎である。この三者が同じ霊園に眠ることに因果を感じる。
第11回 バスケットボール レジェンドたちのお墓ツアー
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