大阪府泉南郡出身。1902(M35)13歳の時に渡米し苦学してニューヨーク大学を卒業。米国時代のニックネームは“テキサス無宿”であった。'14(T3)帰国。大森安仁子(同墓)が経営する有隣園を手伝う。
'28(S3)民政党公認で総選挙に出馬し初当選(以後、12回当選)。'39賀川豊彦(3-1-24-15)や三木武夫(後の総理大臣)らと日米同志会を結成。民主党解党後は大政翼賛会に参加。
'43翼賛政治会の代議士会で鳩山一郎と中野正剛(12-1-1-2)の演説に対し、鳩山を支持しながら、中野正剛を非難した。'45日本進歩党の結成に参加。戦前は海軍政務次官、翼賛会総務などを歴任。
戦後'46公職追放されるが、'54解除後に自由党に復帰し、同党党勢拡大委員長を務める。鳩山派の一員として活動し、自由民主党結成に参加。'55(S30)第二次鳩山一郎内閣の郵政大臣として初入閣。
'59第二次岸信介内閣改造内閣の文部大臣に任命され、オリンピック組織委員を兼任した。文部大臣時代は日教組の集会に顔を出すなど、自民党の立場に捉われない姿勢をとった。'69衆議院議長に就任。
アジア孤児福祉財団会長をつとめ、福祉事業の発展に寄与し、またニューヨーク大学から名誉法学博士を授与される。他に、自民党顧問、国際鮪協会会長を歴任。'72総選挙に落選して政界を引退した。
引退後は、ベトナム戦争中にベトナムのビエンホア孤児職業訓練センター「有隣園」を創設し園長として社会福祉事業に尽力した。享年92歳。'94(H6)父の意志を継ぎ住宅産業家として活躍していた松田妙子が有隣園園長を引き継いだ。
<コンサイス日本人名事典> <日本国会議員名鑑(上)など>
*松田竹千代の墓は鎌倉市・瑞泉寺に本墓がある。
*同墓には近代スポーツ先駆者であり体育家の大森兵蔵と妻の大森安仁子も眠る。
*未確認であるが、松田竹千代が単身渡米をした際に、同地にて大森兵蔵に助けられたのではないかと推測される。兵蔵が米国で客死した翌年に竹千代は帰国し、兵蔵の妻で日本で福祉事業を行っていた安仁子の有隣園を手伝っている。
また、多磨霊園の松田家の墓誌には、竹千代の長男の大森兵蔵(S18.2.8 21歳にて戦死)の名が刻む。同じ名前をつけて、大森家の養子になっていたのであろうか。そのため、松田家の墓に大森家も分骨されているのであろうか。真相を引き続き調査する。
松田妙子 まつだ たえこ
1927(S2)〜ご健在
昭和・平成期の住宅産業家、社会福祉事業家
東京出身。松田竹千代の長女。戦後すぐ、アメリカ南カリフォルニア大学テレビマスコミ科卒業。
卒業後、NBCテレビ初の日本人女性としてプロデューサー業に就く。ロサンゼルス日本語新聞記者の佐藤啓一郎が取材をしたことで知り合い、結婚。'59(S34)帰国。
翌年、日本の実情を世界に紹介する日本初のPR会社のコスモ・ピーアールを夫と共同で設立。
'64日本の遅れた住宅事情を変えようと建設会社の日本ホームズを設立し、2×4工法による経済的な住宅作りを手がけた。
同社取締役を退任後、'75「ハウス55計画」を発案し、国主導のマイホーム開発と話題になった。
'77(財)住宅産業研修財団を設立、'86柳生涯学習開発財団理事長。'87藍綬褒章受賞。
'94(H6)東京都公安委員。同年亡父の松田竹千代の遺志を継いでベトナムのビエンホア孤児職業訓練センター有隣園園長に就任。
'99(H11)71歳で工学博士。主な著書に『一家一冊』、『私は後悔しない』、『家をつくって子を失う』、『親も子も後姿を見て育つ』などがある。2003大工を育てる大工育成塾を開業。
*夫の佐藤啓一郎(1928〜1980)は禅宗の寺の出身であり、「啓道」という僧籍を持つ。ロスの日本語新聞記者を経て、日本で初のPR会社のコスモ・ピーアール会社を興し、PR業界を確立した。多磨霊園の松田家の墓所で眠っている。
*佐藤啓一郎と松田妙子の次女で、竹千代の孫にあたる佐藤玖美(1959〜)は、両親が設立したコスモ・ピーアール代表取締役社長や女性向けのサイトのウーマンジャパンドットコムを設立した女性企業家であり、「起業」や「ビジネスにおける女性」についてのオピニオンリーダー として活躍している。
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