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研究紀要47号

女子総合学園におけるジェンダー及びセクシュアリティの課題

生活・宗教・進路・行事指導における新たな視点

はじめに
T セクシュアルマイノリティの人権を守る生活指導

****中学・高等学校教諭 成田文広

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はじめに

 研究紀要43号に「女子総合学園における性的マイノリティに関わる課題」と題した小論を発表して4年が経過した。その間セクシュアリティやジェンダーあるいはセクシュアル・マイノリティを巡る状況は大きく変化した。そのもっとも大きな特徴は、性にまつわる被害・被差別者や多様なマイノリティが、自らが抱える苦しみや怒りを表現し、連帯の輪を作り、司法の場も含めて問題を告発し始めたことである。それを可能にした最大の要因はインターネットの大衆化とiモード機能のついた携帯電話の急激な普及によるネット社会の出現であろう。

 インターネットはこれまで「常識の壁」によって分断され孤立していたマイノリティに、彼らが求める情報と自ら表現する場を与え、互いを繋ぎ合せた。コンピュータネットの中のバーチャルな世界で育まれた連帯意識やパワーは、やがて現実の社会の中にあふれ出し、具体的な変革のための行動を形成していった。

 それは海外においてはオランダに続いてベルギーでも認められた同性婚法やフランスのパックス法に見られるような同性愛者に対する法整備を、国内ではDV防止法を始めとする性暴力に関わる様々な法整備を進展させた。また、性同一性障害者の戸籍の性別変更を求める動きも活発となり、2003年2月26日付朝日新聞では、当事者である上川あやさん(35)が東京都世田谷区の区議会選挙への立候補を決意し、戸籍上は男性であると公表して選挙運動を進め、当選すれば女性議員として区議会への出席を求めたいとしていることを報じた。

 こうした動きは「学校社会」でも加速し、個別の学校でのみ機能していたルールや常識が問い直され始めている。それは忌避・否定されるべき事態ではなく、学校として積極的に奨励すべき課題であることは1994年に批准された「児童の権利に関する条約」の次の条文によっても示されている。

〔第12条 第1項〕
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

〔第13条 第1項〕
児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

 現実にはこうした社会変化の波に本校もさらされているはずなのであるが、それを意識化し積極的に教育課題として位置付けようとする動きは乏しい。

 2003年度から本校でも高等学校で「情報」の授業が開設されるが、それはコンピュータ利用技術を学ぶだけの受動的活動ではないはずである。「国際化」「情報化」する社会が求める教育活動は、小さな「ムラ」の論理や常識から離れて個々人が主体的に社会参加し、個々の要求を幅広い連帯のもとで実現していく能力を培う能動的な活動であろう。そして、それは同時に教師が生徒を評価する基準を「集団を基礎とした、社会への受動的順応能力」から、「個人を基礎とした、社会への主体的参加能力」へと移行させていくものである。

 本稿では、ジェンダーとセクシュアリティの視点から限定的ではありながらも生活・進路・行事指導の課題をとらえ直し、国際化・情報化時代にふさわしい開かれた学校作りの糸口を探っていきたい。

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T セクシュアルマイノリティの人権を守る生活指導


1 ホモフォビアとセクシュアル・ライツ

 2002年度をスタートするにあたって、本校のある学年会では同性愛指向の見られる生徒に対する対応が話題になった。しかしそれは彼女たちの侵されがちな人権を守るべくどのような配慮をするべきかという議論にはならず、対応への戸惑いの中で「早く治してやらねば」といった同性愛を性倒錯=治療すべき異常行動ととらえた発言もあった。

 私的な雑談ではなく公的な会議の場で生徒のセクシュアル・オリエンテーション(性的指向)が問題にされたことは画期的なことともいえようが、その指導体制は研究紀要43号でも紹介した過去の指導事例から何ら変わらぬままあることを示している。

 それに対し、こうした教員の不勉強による同性愛生徒への偏見を突き抜けた生徒の小論文を以下紹介する。これは2001年度高校1年生の現代国語の授業で課した、自発的なテーマ設定による小論文(約2800字)として提出されたものの一部である。


  同性愛のあり方

「同性愛」・「同性愛者」と言う言葉を聞いた時、皆はどんなイメージを抱くのであろう。正確なイメージを持っている人はとても少なく、ほとんどの人が偏ったイメージを持っている。

 同性愛についての偏ったイメージができる原因は二つあると@(資料番号 筆者注)では言っている。一つは学者が発表する世界=社会によって、偏ったイメージが作られてしまうということ。そしてもう一つはマスコミによって同性愛者のイメージが極端にゆがめられてしまっているという現実である。こう言ったことのせいで昔より同性愛は異常だとされている。(中略)

 皆が気持ち悪いと思うことと同性愛者の社会での在り方はつながっているのだ。その差別される原因は何なのか見ていきたいと思う。(中略)

 私達が通っているのは女子校だ。共学よりはレズビアンが多いのは確かである。それを皆が嫌がるのはあたりまえのことと言えるのかもしれないし、言うべきことでもないのだろう。(中略)

 Bレンことボーイズラブが流行している現在、本気で気持ち悪がる人は少なくなっているのではないだろうか。書店に行って女の子向け漫画雑誌のコーナーを見ると必ず何種類か女の子向けの男性を主人公とした同性愛雑誌がおいてある。そしてボーイズラブの本はクラスのほとんどが読んだ事があるだろう。

 こういったボーイズラブ流行は一つの社会現象である。だから女の子からしたら異性の同性愛と言うのは大いに興味があるものなのだと言える。(中略)

 そしてもう一つ言っておきたいことは「衆道」のことである。昔の男色、つまりゲイである。驚いたことに男色は平安時代より前にもあった。歴史上での有名な人物さえも男色とされている。江戸に入ると「衆道」と呼ばれ清き行ないの一つだとされていた。

「真の恋とは、そも衆道にしかありえぬ。女への恋慕は畜類にさえある。子を成すための約束事≠ノしかすぎぬ。だが衆道のそれは精神の欲求であり真の恋とは魂の充足を求めるもの」

 こう言うふうに昔は衆道は正しい道とされており、そう軽蔑されてはいなかった。

 この二点を含めると今も昔も同性愛と言うものは流行しており、仮説どころか今までの先入観自体、間違っているのだと感じた。

 そこで考えたのが「非常識説」である。人間には一定の常識と言うものが備わっており、男は女を好きになり、女は男を好きになるという常識があるのだ。固定観念とでも言うのだろう。だから、その反対のことに嫌悪感を覚えるのだと私は思った。(中略)

 もう一つ、実体験から例を挙げてみたいと思う。8月の部活の合宿で私ともう一人の部員で夜中に廊下に出ると違う空き教室から声が聞こえてきた。あきらかに性交中の声であった。もちろん女子校だから考えられることは一つなのだが、声の主は一年部員と二年の先輩であり、あまりの衝撃に私達二人は常識が崩されたたどころではなかった。怒りと言うか恐くて涙が止まらなかった。先輩は部を辞めてしまったが本当に恐かった。その怖いと言う感情が差別になるのだろう。だから私は、この仮説が正しいと思うと同時に同性愛を恐がる人の気持ちは痛いほど分かっているのだ。

 同性愛と言うのは一種の障害である。世界にはたくさんの障害を持った人がいる。知的障害・手足や体の障害・病気や精神異常……。我々はこういった人達とどのように接しているだろうか。少なくとも同性愛者を見る軽蔑の眼で接してはいないだろう。私みたいな体験をした人は少ないだろうし、それは同性の性交だったから恐かったのだ。ボーイズラブを好きな子でも絶対同性の性交なんぞを聞いてしまったら泣いてしまうだろう。だから同性愛者を軽蔑の眼で見てしまう心理は理解できる。

 同性愛者というと、いまだに「異常」「倒錯」「変態」という言葉が頭に浮かぶ人がたくさんいる。つい数年前の百科事典・現代用語の事典の「同性愛」の項目には「異常性欲」「性倒錯」といった酷い言葉が並んでいる。これを見た同性愛者はどう思うだろうか。(中略)

 同性愛者も一人の人間である。他人と共存していくのは人間の使命である。同性愛者との境界線を自ら引くのではなく自ら取り去って欲しい。そして同性愛者とどう共存して行くかが我々の考えなければいけない大切なことなのだ。


 この小論文の表現の稚拙さや記述に含まれる認識の誤りをあげつらい、示された事例の真偽を問うことはたやすい。しかし我々がなすべきことは、小論文のテーマに同性愛を設定し、それと真剣に向き合おうとする生徒達に、正しい性情報やセクシュアル・ライツ(性的な事項に関わる人権)を学習する機会を保障することであろう。

 小論文の著者も語るように、女子校生の中にもファンタジーとしての同性愛への関心は広がり、他人事(異性同士)としての同性愛への理解は一定深まっているものの、自分も当事者、あるいはその近親者となりうる同性同士の同性愛に対するホモフォビア(同性愛への極端な嫌悪感や恐怖感)を示すものは依然存在する。そのことは、異性愛者であっても複雑多様な悩みに揺れる思春期にあって、同性愛者の少女たちには過度のストレス=生き辛さを抱え込ませることになる。

 通常の人間関係さえ結べていればその恋愛の悩みを友人や兄弟、時には教師にも語りアドバイスを受けることができる異性愛者に対し、同性愛者はその恋愛感情を身近な人に話しづらいばかりか、時には自分自身ですら認めがたいことがある。

 自我の確立を求め他人とは違うオリジナリティを求めつつも、他人の目を気にして集団から逸脱することを恐れがちな思春期の少女にとって、ホモフォビアは自己のセクシュアリティのみならず自己の存在そのものを否定されるかのような恐怖感や絶望感をもたらしかねない。そうした状況が思春期の同性愛者の自殺率を押し上げているといえよう。

 アメリカで始まり日本でもインターネットを通じて繰り広げられている「ホワイトリボンキャンペーン」は、そうした思春期の同性愛者の危機を救う運動として展開されている。そのキャンーペンの趣旨は次のように紹介されている。

  思春期の同性愛者と自殺についての恐ろしいほどの沈黙を破るために私はこのサイトを作りました。1989年のアメリカの保健社会福祉省の調査によると、思春期に自殺した若者の30%は同性愛者によるものであり、思春期の同性愛者は、そうでない若者に比べ2−3倍、より自殺を試みやすいと報告しています。自らの性的指向と折り合いをつけようとしている同性愛者は、毎日、家族や友人、社会からの否定的な発言や、社会的孤立、そして人生におけるとても難しい時期での支援態勢の不足に直面しています。
http://www.wrcjp.org/w_ribbon.htmlより転載)


 生活指導の伝統的な課題の一つに「不純異性交遊」があろうが、寡聞にして「不純同性交遊」の呼び名を知らず、同性間の恋愛についてまともに論じた「生活指導の手引」を見たためしがない。

 禁止や規制を原理とし、生徒の「生活習慣を正す」事を主たる目的とした生活指導では、生徒の悩みに応えることは困難であり、下手をすればホモフォビアを煽り、人権を守るどころかそれを侵害するような指導すらされかねない。また、同性愛の当事者同士に対し、その恋愛感情を否定したり世間体を気にして無理やり引き離そうとした場合、ただでさえ社会的孤立感に苛まれている当事者たちがこの世で共に生きる望みを絶ち、最悪の選択をしないとも限らない。

 それを防止するためにも、セクシュアル・ライツを人権の一つとして押さえ、なおかつ人権学習を基礎においた性教育を生活指導の一分野として据えることが求められているのではなかろうか。「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」の第一条(目的)は次のように定められている。

 この法律は、人権の尊重の緊要性に関する認識の高まり、社会的身分、門地、人種、信条又は性別による不当な差別の発生等の人権侵害の現状その他人権の擁護に関する内外の情勢にかんがみ、人権教育及び人権啓発に関する施策の推進について、国、地方公共団体及び国民の責務を明らかにするとともに、必要な措置を定め、もって人権の擁護に資することを目的とする。

 また、2001年5月25日に人権擁護推進審議会が出した「人権救済制度の在り方についての答申」でも、女性・高齢者・障害者・同和関係者・アイヌの人々・外国人・HIV感染者と併記して、同性愛者の雇用における差別や嫌がらせも人権救済の対象として検討すべき事例として挙げられている。

 また、こうした同性愛者に対する人権への配慮と同時に、同性愛・異性愛を問わず周囲の者に対して著しい不快感を与える性的な表現行為(発言や態度)が「セクシュアル・ハラスメント」にあたるのだということを学習課題に据えることが求められているはずだが、性的マイノリティの存在自体を否定する意識からはこうした指導は望むべくもない。

 一方、学校や社会の対応の遅さを尻目に、未成年者も含めた同性愛当事者が管理運営するWEBサイトは爆発的に増え、互いにネットワークを張りながら悩みを共有し、出会いの場を創造している。また、そうした「専用」のサイトばかりでなく毎日新聞社のWebサイト「Mainichi INTERACTIVE」の毎日中学生新聞投稿欄「毎中クラブ」のような、一般読者が多様なテーマで参加している投稿欄にも同性愛に関する中高校生の様々な悩みや意見が寄せられ公開されている。2000年秋から2001年1月には次のような見出しの投稿が続いた。

2002/11/28「同性愛」の何が悪いの?
2000/12/19 恋をじゃまする権利はない 変な目で見ないで
2000/12/19 愛し方は人それぞれ
2000/12/19 どこからが「同性愛」なの?
2001/01/23 友達が心配です

 このやり取りの発端となった2000年11月28日の投稿(資料@)には同性愛者であることをカミングアウトすることの難しさと、マイノリティである同性愛者の存在を社会(学校やそこでの仲間)が認知することを求めている。それへの返答となる2002年12月19日の投稿には多様なマイノリティの存在の一つとして同性愛者を理解しようとする姿勢が見られる。

 さらに2002年の秋から年末にかけて連鎖的になされた同性愛に関する投稿の掲載は次の12件に上っている。

2002/09/12 同性愛をどう思う
2002/09/25 同性愛って嫌なもの?
2002/10/09 同性を好きでもいいのでは
2002/10/09 同性愛、自然の掟を破ってる?
2002/10/09 好きになった人が同性だっただけ
2002/10/23 同性愛について まず差別をなくそう
2002/10/23 人の気持ちを否定しないで
2002/11/06 同人誌は「アヤシイ本」じゃない
2002/11/06 同人誌 いい作品もあるのでは?
2002/11/13「何となく」はやめて!!
2002/11/27 同人会の低年齢化は反対!!
2002/12/11 同性愛について 実際に体験したらちょっと

 この「シリーズ」の2002年11月6日から11月27日にかけての投稿では、前述の小論文でも触れられていた男性同性愛を題材とした「やおい」(元来「山なし・落ちなし・意味なし」の性的描写中心の漫画の意)あるいはボーイズラブについての率直な意見交換がされている。特に2002年11月6日の神奈川県の女子校生の投稿「 同人誌は『アヤシイ本』じゃない」(資料A)は、前述の本校生徒の小論文と裏表の関係にある記述となっており、同性愛指向の生徒が普遍的に存在し、それがどの学校においても教育課題に成り得るものであることを示している。

 「同人誌」一つにしても、本校生徒の中にも興味を持って読み、かつその類を創作している者もいると聞く。彼女らのそうした「性的な嗜好」と恋愛対象が同性に向く「性的な指向」(セクシュアル・オリエンテーション)とを短絡的に結び付け混同すべきではない。老若男女を問わず、性的なファンタジーの希求、あるいは性的な人間関係を持つ欲求は自然な欲望である。よって、「やおい」を悪趣味として排除するのではなく固有の文化活動として認め、同性愛を異常な性倒錯として隠蔽しようとするのではなく多様な情動の発露の一形態として尊重する姿勢をこそ育むべきであろう。

 それと同時に、必要かつ正確な情報を自ら得て、個々人が抱える不安や疑問を当事者同士で共有し合える場へのアクセス方法を教えたり、それへの参加を保障していく積極的な取り組みも重視されるべきである。性的マイノリティの例ではないが、ある摂食障害の生徒が、自分の病気は特殊なもので友達や教師に知られたらそれだけで変な目で見られるに違いないと思い込んでいたが、親がインターネットを家で使えるようにしたところ、摂食障害に関するサイトを検索して様々なBBSを閲覧していくことで、世の中に多くの「仲間」がいることを知り、安心して治療を受け始めた実例が本校にもある。

 性的マイノリティについてもそれと同様に、大人が「支援者」として指導するのみならず、管理的な生活指導の枠を超え、生活の質の向上(QOL)をめざした取り組みを校内に保障していく時期である。かつて同和地区出身生徒を中心に「社会問題研究会」や「部落問題研究会」が全国各地で盛んに組織されたように、性的マイノリティの当事者を中心とした同好会や研究会を組織し、京都府で長く行なわれている「高校生春季討論集会」などにも参加する道を保障すべきであろう。更には思春期・青年期の当事者が企画・運営する活動への参加を通して社会的連帯の輪を広げ、社会に出てからも自らの人権を意識しそれを行使していく足掛かりを育てていくことも学校教育の重要な課題である。

 「人権学習」と「生活指導」が何やら矛盾対立の構図を見せる学校も少なからずあるが、それを克服する努力が健全な教員組織をも構築するともいえよう。

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2 性同一性障害(GDI)と服装指導

 2002年度の本校の性的マイノリティに関わる出来事の内、ここであえて取り上げておくべき事実として、自らをFTMTS(女性から男性への性別再指定手術を望むもの)と意識していた生徒の存在がある。当事者についての詳細は、私が直接面談していないため避けるが、その周辺の生徒たちが語っていた二つの事実を元に、GIDあるいはTS(トランスセクシュアル)やTG(トランスジェンダー)にまつわる生活指導上の課題を再整理してみたい。

 ある日、私が一度も担当したことのない高3の生徒がやってきて相談があるという。それは「実は、私の友達は性同一性障害だといっています。それが○○の授業で○○先生は『性同一性障害の人が手術をすることはどうかと思う。親からもらった大事な体を傷つけてほしくない』とおっしゃいました。そのことについてどう思いますか?私は、それは性同一性障害の人の苦しさが本当にわかっていないということだと思うのですが」という内容であった。

 授業で教えてもいない私のところに相談に来たのは、その頃私が職員室の机の横の棚にGIDや同性愛やインターセックスなどの性的マイノリティに関する本を生徒貸し出し用に十数冊並べてあったのを見たのと、「成田はその手の話に詳しいらしい」という噂を友達から聞いたことによるものであった。

 その問いに対しては、「性同一性障害が先天的なものであり、個人の趣味や嗜好とは違い、その性別に対する違和感をどうすることもできないものである」という説明をすると共に、「多様な「性」がわかる本 性同一性障害・ゲイ・レズビアン」(伊藤悟、虎井まさ衛 編著/高文研刊)でFTMTS当事者の虎井まさ衛氏が語る下記の記述と重なるような内容を話した。それにより、相談に来た生徒は疑念が晴れ、自分の感覚の正しさに確信を得たようだった。

 もし両親の言うことを聞いて治療せずに、手術せずにいたら、心を病んで廃人同様になってしまうか、一生諦めと嘆きで満たし、無為のまま投げ出してしまったことでしょう。
 しかし手術の後の私は、本当に幸せです。(中略)人生はすばらしい、生まれてきてよかった!なんの誇張もなくそう叫ぶことができるのです。(中略)
そして毎日顔を輝かせて生きている私を観る親もまた、ある程度以上は寂しい諦めかもしれませんが、ほっとしたやさしい表情で暮らしています。「幸せの基準は人それぞれ違うものなのだ」と了解してくれたようです。
(「多様な「性」がわかる本 性同一性障害・ゲイ・レズビアン」P214-215より抜粋)


 さて、もう一つの事実とは、高3の二人の生徒がクラブ活動中に何気なく語っていたGIDに関する次のような会話である。

  A子「○○さんって金八先生に出てきた鶴本直みたいな性同一性障害で、
    二十歳過ぎたら手術するつもりだって言ってるけどどうなんやろ?」
  B子「よくわからんけど、自分のことボクって言ってるし、スカート履くの
     嫌がってるし、そうなんちゃうかな。でも性同一性障害ってニューハー
     フとかと一緒なんやろか?オカマとどう違うんやろな……」

 こうした率直かつ素朴な会話を聞くにつれ、性的マイノリティに関する情報の乏しさや混乱を実感すると共に、それに対してフォローしきれていない本校の教育の限界を痛感する。研究紀要43号では「女子総合学園における性的マイノリティに関わる課題 京女はペニスをつけた女生徒を受け入れられるか」と題して、MTFTS(男性から女性への性別再指定手術を望む者)の少女(戸籍上は男子)を女子校が受け入れる可能性について論じたが、それ以前の課題として現に存在するFTMTSの少年(戸籍上は女子)に対しどう対応すべきかが問われているのである。

 FTMTSの少年がわざわざ女子校に入学を希望することなどなかろうというのが一般的な感覚なのだろうが、前掲書を始めいくつかの図書で、FTMTSの少年があえて女子校に入学している実態が報告されている。

 そこで、研究紀要45号に掲載した「女子総合学園におけるジェンダー及びセクシュアリティに関わる課題 IT革命に対応するホームページ作成の試み」で紹介したホームページProject G(
http://www6.plala.or.jp/fynet/)では、女子校におけるFTMTSの存在と、それに対する理解を求める文章を掲載した。その一部を次に転載する。シリーズ全文は下記アドレスのページを参照されたい。

  http://www6.plala.or.jp/fynet/2tokusyu-sei-bunka00-mokuji.html


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Project G 考えるヒントのお蔵  性と文化の棚  第7番 立ち小便とジェンダー 4

  立ち小便に見るマイノリティの願い  座ってないで立ちあがろう

9 立つべきか座るべきか、それが問題だ

2002年9月に高文研から出版された「多様な「性」がわかる本  性同一性障害・ゲイ・レズビアン」は4人のGID(Gender Identity Disorder=性同一障害)の当事者と1人の当事者の母親、3人のゲイ、3人のレズビアンの手記が収められ、インターセックスについての用語解説もされているセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)理解のための優れた入門書です。

その本の中の「立ちションできたら乾杯」と題されたFTMTS(Female to Male Transsexual=女性から男性への性別再指定手術を望む人、した人)である渡辺匡代さんの手記を一部抜粋して紹介します。

  小学校前まで、風呂がない借家住まいだったので、家族がやっていた自営の店が終ると銭湯に行かされた。そこで父と入る男湯の皆にはあるのに、自分の身体にないモノに気が付いた。自分にないペニスが気になるから、隙あらば父や男の子のに触れていたが、見つけた保母さんに怒られ、止められてしまった。子どもは成長の過程で、身近な同性のしぐさや行動をまねて育つのだ。私も、立ちションを試みては失敗ばかりしていた。

  結局、自分にないのは分かったが、いずれ生える、と頭から信じていた。何しろ、後にジェンダークリニック(以後Gクリ)の精神科医から、体の検査結果を聞く直前まで「たぶんチンコが腹の中にある」と考えていた私だ。(中略)

幼い頃から母の顔色をうかがい続けたこともあって、自分の本性を隠すために人の心を探る直感は冴えていたのだ。練習していた立ちションを「男の子のすることだよ」と言われ、〈何かが違う。自分を出すのは控えよう〉と本心を隠す術を覚え始めた(後略)

この手記に限らずGIDにまつわる立ち小便≠フエピソードはしばしば見受けられます。自分のジェンダー・アイデンティティ(性自認)にかなったジェンダーをまとうことを願うFTM当事者が自分の「男性性の象徴的行為」として立ち小便を語るのは極めて自然なことです。

その反対にMTF(Male to Female=男性から女性へ)の場合は、学校のトイレで男の子達と並んで立ち小便することに非常な抵抗を感じ、かといって個室≠ノ入れば女みたいだと言われかねず、立ち小便が否定的に語られても不思議でありません。

さらにセクシュアル・マイノリティに対する偏見や誤解から生まれた嫌がらせ、あるいは興味本位な覗き見趣味は二つの下ネタが重なり合うトイレが舞台になりやすいのも事実でしょう。
こうした当事者の願望や苦痛の声を、吉永みち子氏は「集英社新書 性同一性障害性転換の朝(あした)」で次のようにレポートしています。

身体への変化への耐えがたい嫌悪感や周囲の反応は、同じ苦しみを苦しんだ人間でなければ到底理解できないほど強いものだった。

「一番イヤだったのが、トイレです。女子用のトイレに入る度に、女だということが突きつけられるようで、たまらない気持ちになるんです。だから真っ青になるくらいまでいつもトイレを我慢していました。」

ホルモン治療の効果で、外見はすっかり男性になっている。だが、建築現場でのトイレがストレスを生み、どうにもならないほど膨れ上がっていた。立ち小便ができないから、どうしても個室に入るしかない開放的な建築現場のトイレではきっちり戸を閉めて個室にばかり入ると目立つ。あいつは下痢ばっかりしているのかと周囲に思われる。そんな噂が立つと、人は注目するようになる。ますますトイレは重大な問題としてのしかかってくる。

文章だけから肉声へ、胸から下のみの映像に声すら変えている状態からサングラスへ、だが、サングラスから素顔までの道はまだ遠い。

「親戚の問題とかまだありますから。それに、抱えている状況はみんな違いますから。あんまり甘くみちゃいけないと思う。その土地に住めなくなったり、職を失ったりすることだってあるんですから。でも、マスコミも真剣に話を聞いてくれるようになったのがうれしいですよ。以前は、立ちションとセックスのことばっかり聞かれて、情けなくなりましたけど、最近は違いますから」

自分の身体に耐えがたい違和感を持っている場合、それを意識せざるを得ない場を避けたいと願うのも自然な感情でしょう。裸にならなければならない入浴はその気になればやめることもできますが、排泄は避けて通れぬ日常の行為です。こうした問題はインターセックスの当事者の場合にも形を変えてつきまといます。

「オシッコなんて立ってしようが座ってしようが大した違いじゃない」と何のこだわりもなくいえる人は、おおらかな人のかもしれませんがセクシュアル・マイノリティの言い知れぬ苦しみに鈍感な人であるとも言えるでしょう。

自分にとって何の問題にもならないことが、誰かにとって耐えがたい苦痛であるということに思い至れるだけの想像力は、弱肉強食の原理で動く競争社会では育たないのかもしれません。


10 マイノリティからはみだしたマイノリティ

私達は自分の興味の向くものに対してはわずかなディティールの違いまで目が行き、その一つ一つの差異が持つ価値について熱心に語ります。それは時にペットの犬の毛並みであったり、ブランドのバッグの金具であったり、ワインの産地のある年の作柄であったりします。

それを誰かが大した違いはないなどと言おうものなら、むきになって違いを強調し、それも通じないとなると「違いの分からぬツマラン奴だ」と侮蔑的な冷笑を浮かべることさえあります。
そしてそうした「こだわり」を持った人の多くは、自分の関心から外れたものの存在に気付かぬ自分の鈍感さに平気でいられるばかりか、誰かが目の前で手助けを求めていても驚くほど冷淡に「無視」をすることができるのです。

一方、身近な人々との関わりを大切にしながら小さな世間に安住している善良な人々がいます。その人々は「自分がされて嫌な事は相手にしない、自分がされて嬉しい事はできるだけしてあげる」といった形で自分の善意を表わします。

それはみんなが大差ない均一な感覚や価値観を共有しているという思い込みに支えられた行動で、自分との差異を認めた場合その態度は一変します。まずはみんなに合わせることを婉曲に強要し、それがかなわぬとなればその差異の善悪や合理性を無視して自分と違うと言うただその一点で「敵対視」することすらあります。

そうしたみんな=マジョリティの無視や敵対視によってその存在を社会の隅に押し込められている人々がマイノリティなのだと定義しても大きな間違いにはならないでしょう。

また善良なマジョリティにとってマイノリティは時に同情や憐憫を伴った好奇心の対象になります。そこにつけ込んだマスコミが描くマイノリティ像は、視聴者がどこかで得た断片的な知識から作り上げたイメージに合致するような情報を抜き取り誇張して見せることが多く、視聴者の期待≠裏切るようなマイノリティの多様性を明らかにすることはまれです。

自分がよく知らないものに対してじっと目を凝らし耳をそばだて、そこで得た情報を客観的に判断するのは意外と難しいものです。多くは、旅行に行ってたまたま出合った人やその日の天気によって「あそこはとんでもない所だ」とか「〇〇人は信用できない」などと裁断するように、断片的な情報をもとに「アノ人たちはソウイウ人たちだ」と決めつけ、ステレオタイプの枠に閉じ込めてしまいがちです。

そして善良なマジョリティによって作られたマイノリティの枠組からはみだした更なるマイノリティは、カテゴライズされたマイノリティの枠からもはじき出され一層の無視や敵視にさらされかねないのです。

悲しいことにそれはマイノリティとしてくくられた枠の中でも同様で、マイノリティの中での無視や敵視が入れ子細工のように構成されていることは珍しくありません。マスコミが華々しく取り上げるマイノリティの陰に隠れて、見過ごされ無視され続けるマイノリティの悲痛な声を聞き取ることの難しさの一例が「性同一性障害性転換の朝(あした)」の次の一節からも窺い知れます。

電話で話したとき、橋本氏※は皮肉っぽい口調で言った。

「最近は性転換手術のことが話題になったから、みんなトランスセクシュアルのことは知るようになりました。でも、彼らはこの世界の中でもマイノリティーなわけ。半陰陽者は、実はマジョリティーなんですよね」

  トランスセクシュアルより、実ははるかに多い半陰陽者たちが、誰にも知られることなくひっそり生きている。半陰陽の人たちのことはあまりに知られていない、知ろうともしていないように見える。

  インターセックス(半陰陽)の当事者である橋本秀雄さん


11 女子校の中の性的マイノリティ

学校の中にも様々なマイノリティが存在しています。それは不登校や摂食障害といった比較的多くの人に認知されている存在≠烽れば、同性愛やGIDのようにいまなお誤解や偏見にさらされている存在もあります。教師の中にもいまだに「同性への恋愛感情は思春期特有の一時的なもの」で「そうでなければ性倒錯や精神病の一種なので治してやらなければならない」と思い込んでいる人がいます。

こうした教育的な配慮≠ェ差別や偏見を再生産する行為だと言う事に気付くにはそれ相応の研修が必要なのですが、セクシュアル・マイノリティの児童生徒に対する対応や指導を研修課題にしている学校の取り組みを聞くことは余りありません。

それゆえ、自分の受け持ちのクラスに同性愛の生徒がいることに思い及ばず、同性愛者に対する生理的嫌悪感をあらわにした差別的な発言を平気でしている教師後をたたないのです。

TBSの人気長寿番組「3年B組金八先生」の第6シリーズでは、GIDでFTMTSの少女≠ェ一つの軸となって物語が展開していきました。学校におけるセクシュアル・マイノリティの存在やその苦しみが正面から取り上げられたと言うのは画期的な出来事ですが、同時に「性同一性障害とはアアイウモノだ」という刷り込みを多くの視聴者にしているのも事実です。

「男のように自分をオレやボクと称し、スカートを嫌って胸にはさらしを巻いて暮らしている」という行動様式はFTMTSの多くの人に見られる特徴なのかもしれません。しかし、中にはあえて「女子校」に進学してミニスカートやルーズソックスをはいているFTMTSもいるのです。人間が普通に持つ個性や多様性をマイノリティであろうとちゃんと持っているということ、そうした多様性に気付くことは当事者でも難しいことのようです。

以前、ある研究会の席でGID当事者の方に「私は女子校の教員ですが、FTMの子どもたちに対して女子校が果たせる役割にはどのようなことがありますか?また、配慮すべきことがあればどんなことでしょう」と質問したことがあります。

それに対して頂いた答えは「FTMの子で女子校に行きたがる子の話は聞いたことがないし、行きたがる子はいないのではないでしょうか。」というものでした。

しかし、先に紹介した「立ちションできたら乾杯」には次のような記述があります。

私が塾通いまでして中学受験をしたのは、好きな子が私立受験をするからまねしたいのや、どうせはかされるスカートなら、遠くの私立へ通えば知り合いに見られずに済む、という単純な下心からだ。(中略)

千葉の女子校へ六年通って部活ばかりしていた。女の子に恋もしたが、男だからレズビアンとは思われたくない。それで互いの距離を曖昧なまま、付き合いをしていた。

また八岩まどか氏による「「心の性」で生きる Trans Sexual」には「静香が女子校に入った理由」という一人のFTMのレポートがあり、その冒頭は次の通りです。

  高校は女子校だった。ミニスカートにブレザーで襟にリボンのついている制服の、いわゆるお嬢さん学校だ。ちょうどルーズソックスが流行り始めた頃のこと。入学式が終わって、静香が教室に入ると、すでに同じ制服のクラスメイトが四十数人きちんと座っていた。十五、六の若い女の子たち。今日だけはきちんと折られた白いソックスから伸びた素足がまぶしく見える。

『これが全部オレの女だ!』

静香は心の中で叫んだ。

『男であるオレがだ、わざわざ女子校に入ったのも、このためなんだ。オレ以外は女だけの世界……。こんな生活を手に入れるためなら、スカートをはくぐらい我慢できる』

こうした手記の断片は、また新たな偏見を生むかもしれません。そうした誤解や偏見と差別の連鎖を断ち切ることこそが、教育本来の目的の一つのはずです。

性別再指定(性転換)手術を、あたかも癖毛を直すストレートパーマや美容整形、あるいは入れ墨などと同列に扱うことはGIDへの無知・無理解を示すものにほかなりません。

しかしもう一歩踏み込んで、この世の誰もが誰にも侵されることのない権利として性的自己決定権(セクシュアル・ライツ)を持っていることに気付くならば、医療行為として確立している性別再指定手術は言うに及ばず、学校で取り締まるのが当たり前になっている茶髪やピアスも、その人がもっともその人らしくいきる手立てとして誰からもとやかく言われる筋合いのものではないという確信に行き当たります。
(参照:人権救済制度の在り方について (答申))

学校が本気になってセクシュアル・マイノリティに対する対応をとろうとしないのは、性が一種のタブーであるということ以上に、マイノリティの人権を守ることが今行われている生活指導≠大きく揺さぶりかねないことを、多くの教師が無意識に感じ取っているからなのかもしれません。

あらゆるマイノリティの問題はすべての生徒の問題と接点を持っているのだと自覚することが、学校教育の質の向上をもたらします。
(参照:人権教育及び人権啓発の推進に関する法律)

共学校化が進む時代の流れの中で、女子(男子)校はその社会的な存在意義を問われている今だからこそ、一方の性だけを集めて教育しているという特異性≠再確認し、その影にある様々な性的課題に積極的に取り組む事に意味があるといえるでしょう。


12 立ちあがり始めた神と座ったままの仏

「この世の誰もが人として同等の尊厳を持った存在であり、なおかつその存在の仕方は多様性に満ちている」こんな単純なことが通用しない。人権や思いやりが標語のように掲げられた街角や学校で、無知と偏見に基づく差別がまかり通り、自らがその主体であることに気付こうとしない。

そうした人間界、社会や世間に絶望しかけた時に神や仏にすがりたくなった経験を持つ人も多いでしょう。ところが、病人や障害者、飢えや戦乱に苦しむ人に対して救いの手を差し伸べてきた教会や寺院が、同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティに対して時に攻撃の先鋒となった歴史や現実があります。

ProjectG/「聖書の中のヤギさん」の中のレビ記  18:1-3 6-10 22-23  いとうべき性関係やレビ記  20;10、13、15-16  死刑に関する規定もご覧下さい。)

しかし、セクシュアル・マイノリティが積極的に神との接点を求め、苦しむ仲間の救済の道を探ろうとしている事に対し、理解を示す動きがあることも事実です。

善良で信心深い人々がGID当事者に投げ掛ける「親からもらった体なんだから傷つけるなんて申し訳ない」「神様が下さった性を勝手に変えようとするなんて罰当たりだ」と言う言葉ほど当事者自身を深く傷つけているものはないかもしれません。

「多様な「性」がわかる本  性同一性障害・ゲイ・レズビアン」の第X章「多様な性を理解するための基礎講座」で、虎井まさ衛さんがわざわざ「身体を人工的に改造して性を変えるなどということは、親にも申し訳ないし、神様を冒涜しているように思えるのですが?」という問いを設けました。

そしてその答えの最後を「たとえ手術で外側を変えたとしても。GIDであったからこそ得た幸福と使命を正しく認識して、一生懸命、感謝をもって生きる限り、特に何の問題もないのに不平不満を口にしつつ一生を終える人々よりも、神様を冒涜していることになるとは、私はどうしても思えないのです」と締めくくっています。その言葉の重みを受けとめるだけの器を育てることこそが人間教育=宗教教育の課題だと言えないでしょうか。

上村一夫が描いた売春婦サチコが商売≠していた「新宿二丁目」は売春防止法が施行により赤線地帯≠ェ消滅して半世紀がたつ今、性的マイノリティのメッカのような土地になっています。しかし社会的かつ性的強者の地位を保ってきた男は、今も女に対して一方的に清純さや貞淑を、あるいは欲情を掻き立てる淫らさをもとめ、なおかつそこに抱かれて癒しと安息を得ようとします。

新約聖書「ルカによる福音書7 罪深い女を赦す」でイエスは売春婦のマグダラのマリアの罪を赦され、イエスが十字架にかけられて処刑された後も一人墓の前に留まり、その「復活」を目撃した証人となります。

罪の少ないものより多くの罪を持つものの愛は大きく、多く愛したものは赦されると語って彼女の罪を赦したイエスが説く「罪あるものこそ深く愛さねばならない」という教えを、私たちは容易に受けとめることができません。

セクシュアル・マイノリティには何の罪≠烽りません。それを蔑むものの中に本当の罪があるのです。サチコは世の中の偏見や蔑視に耐えながら、男の欲望に応えて孤独な男たちを慰め続け、煩悩うずまく世俗の底ですっくと立って立ち小便をしたのです。そんなサチコを堕落した淫らで汚れた女としてしか見ることのできない目であれば、きっと性的マイノリティも奇妙で気味の悪い存在にしか見えないでしょう。

性≠ェ極めて人間的な課題であり、それとまともに向き合うことがすべての個人の尊厳を守っていく運動の起点となることを心にとめるとともに、神や仏がセクシュアル・マイノリティを見捨てぬことを願いつつ、このシリーズを終ります。


 服装や髪型や装飾は極めて身体性の高いものであり、それは人格と分かちがたいその人間のプライバシーであり、かつアイデンティティを形成する重要な要素である。GID(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)の生徒の人権を守るという発想はジェンダーフリーの運動とも重なりつつ、制服の自由化や女子生徒のズボン選択可能の動きを作ってきた。

 それは本校にも毎年何人もが入学してくる枚方市立長尾中学や枚方第四中学を初めとするいくつかの中学校ではすでに実施されており、中部地方の公立高校でも同様な動きがあることは2002年4月13日付中日新聞(資料B)でも報じられている。

 ただ、こうした日本の「新しい常識」にも依然として限界があり、男子生徒のスカート着用の許可や、制服として男子用スカートを用意している学校の例は聞かない。しかし2002年6月21日付朝日新聞の記事(資料C)で報じられているように、東京地裁の判決により一般企業においても男性の「女装」は解雇理由とならないと認められる社会となりつつある。そうした情勢を踏まえたとき、70年の歴史を誇る本校高校のネクタイ付きブレザーや中学校のセーラー服に、ズボンのセットを用意することはすでに社会的な許容の範囲にあるといえよう。

 4年前に本校研究紀要43号「女子総合学園における性的マイノリティに関わる課題」で「3 具体的かつ即物的な問題提起 」として提起した11項目のうち、少なくとも制服や学習プログラムに間する提起については、すでに他校で実現しつつあり、本校でも早急に検討・実施すべきである。

 また、こうした性的マイノリティの人権擁護についての課題は、生活指導・人権教育の課題としてだけでなく、宗教教育の課題として意識されるべきものでもある、

 
性的マイノリティを排除・迫害してきた歴史を持つキリスト教では、その反省に立ち様々な行動提起や実践が進められている。日本基督教団京都教区では「2002年5月4日 第66回京都教区総会 京都教区宣教基本方針・方策」の「宣教基本方策 U 主イエスが苦しむ者と共に苦しまれたように、差別問題に取り組む」で、「性差別問題に取り組む」「性的少数者(同性愛者、性同一性障がいなど)差別と取り組む」と課題を明記している。(日本キリスト教団京都教区ニュース第56総会期No.1 2002年10月18日発行に掲載)

  一方、性的マイノリティに対して歴史的に「寛容」であった仏教においては、表立った行動を目にしない。しかし、「性差別の現実に学ぶ」と題された浄土真宗本願寺派・基幹運動本部事務局編集による『共にあゆむ33号』には、「男は仕事・女は家事それでいいの?見つめ続けたい『いのちの尊さ』」「民法改正と女性の自立」といった文章が掲載されており、浄土真宗の教学においても性差別が重要な課題であることが示されている。

 また、浄土真宗本願寺派の東海教区仏教青年連盟のホームページ「浄土真宗やっとかめ通信」(http://www2.big.or.jp/~yba/ 事務局:本願寺名古屋別院内東海教区教務所)の「仏教青年Q and A」には「同性婚の仏前結婚式ってできますか?―教学上の問題と現実の問題」と題された問答があり次のような解説がされている。

  そこではまず「一般論」として「み仏を中心とした新たな家庭をつくる第一歩としての儀式ですから、殊更『男女間に限ったとこと』という限定を見出すものではありません。また夫・妻という記述があったにせよ、それは大多数の結婚の形態を想定して男女が記されているもので、結婚の意義を異性間に限定するものではない、と理解すべきでしょう」とし、「仏教の場合、結婚について、所謂『うめよふやせよ』というような、子どもをもうけることを前提としてとらえたり、神の概念を盾に『自然な結婚形態』を強要するものではありません。その点、西洋で問題となっている『神の意向に反するかどうか』という不毛な論議はしなくて済み、自分達で判断し、問題点は改善していけばよいのです。ですからもし、オランダや米国バーモント州に浄土真宗の寺院があって、請われることがあれば、当然仏前結婚式をとり行なうことになります」(http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/01_04_23.htmlより抜粋)という見解を示しています。

  その上で「現実的な問題」として「法律が許していない結婚を仏式でとり行う訳ですから、仏法が法律(王法)を否定することになり、そのためには司婚者にそれ相当の覚悟が要求されるわけです。勿論、式をとり行うことが法律違反になるわけではありませんが、現行法を否定することは、寺院という立場上個人的な思想の問題では済まされず、まして別院や本山が行なうとなれば、それは『教団を挙げて法律の改正を求める意思表示』となる訳です。そうした下準備もなしに司婚を引き受けることはおいそれとはできないでしょう。ただし一僧侶の立場なら自らの覚悟でできる、ということは確かです」(同上)と指摘しています。

 さらに「現在、浄土真宗が取り組んでいこうとしている課題は、部落差別や性差別の問題、神祇不拝、新たな生命倫理確立等で、まだ同性婚の問題は取り上げられていません。しかし、機会と要請があれば、そうした問題が議題にのぼり、一定の方向性が示されることになるかも知れません」(同上)と、今後に向けての課題を示しています。

  浄土真宗本願寺派系でありかつ女子教育を担う本校が、こうしたジェンダーやセクシュアリティに関わる課題をより積極的に位置付け直すことは、本校の建学の精神を具現化する一方途であるといえよう。

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3 セクシュアリティとしての化粧やピアスへの指導

  本校の「生徒心得」の「総則」第二項には「常に温雅貞淑にして自主的な女生徒としての品位を高めるように努めること」とある。「貞淑」を辞書(三省堂新明解国語辞典)で引けば「〔主婦が〕夫の不身持や乱暴にかかわらず、家庭を守り、あくまでも夫を立てて従順を宗とする・こと(様子)」とあるように、極めて「時代性」の高い心得である。これは「男女共同参画社会基本法」を新たに持ち出すまでもなく、1980年に定められた本校「教育目標」の第三項「基本的生活習慣を身につけ、個人の尊厳を重視するとともに、生徒会活動をはじめとする自主活動には積極的に参加し、自治能力を高め、さらに社会の矛盾を見のがさない生徒を育成する」と照らし合わせても、問題とされるべき心得であろう。

 そうした精神を背景にした「生徒心得」において、生徒の化粧・装飾については次のように定められている。

4 頭髪については染色、脱色などをせず、身だしなみの域を逸脱するような
 ものであってはならない。
5 化粧はしない
6 装飾品は身につけない

 こうした規定に基づき、生活指導係を中心に、特に学外者の目に多く触れる文化祭や修学旅行を筆頭にした校外行事の際などには普段以上に茶髪・ピアス・化粧点検が厳しく行われ、時には茶髪生徒に対して「黒粉スプレー」が使用されている。

 この黒粉スプレーを巡って兵庫県川西市の中学校で「事件」が起こり、校長が毛染め薬の危険性に対する認識の甘さを認めて保護者に謝罪をしたことが2002年9月13日付毎日新聞(資料D)で報じられている。

 また、京都府南丹高校の生徒が「学習に直接関係のない頭髪検査で授業が受けられないのは学習権を侵害する」と、京都弁護士会に人権救済を申し立てていた事例について、京都弁護士会会長は「髪の色を選択する自由は幸福追求権の中の人格的自立権、自己決定権の範畴に属する」と判断し、茶髪の生徒を帰宅させるのは「授業を受ける時間を制約するもので疑問」と結論づけ、「授業を受ける権利を侵害する」として改善を求める要望書を府教委と同校に送ったことが2002年11月23日付朝日新聞で報じられている、

 服装・頭髪にまつわる生活指導においては、こうした「人権」の問題と同時に、もう一つ理解されにくい課題として様々な精神的な負荷を抱えながら生活している生徒への配慮がある。化粧や装飾をすることで精神の平衡を保ち、あるいは自我の確立の糸口とし、あるいはボディイメージの再構築を図ろうとしている生徒もいるという事実に対して、「集団の規律を乱す」として画一的な指導をすることがどれほど危険なことかを指導者は自覚すべきであろう。

 しかし、多くの生徒が宿泊を伴う修学旅行のような行事を運営する際には、そうした一部の生徒が負うリスクよりも、多数の生徒の規律と安全を確保することが優先されがちである。高2の4月当初からのそうした指導の中で、担任のできる精一杯のフォローとして、学級通信に「茶髪・ピアスを考えるシリーズ」を企画した。その第3回と第8回(最終回)を以下転載する。シリーズ全文については下記アドレスのページを参照されたい。

    http://www6.plala.or.jp/fynet/4tegami20023-chyapatu.htm

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2002年度 2年1組学級通信 「23枚目の手紙」 2002/06/25

茶髪・ピアスを考えるシリーズ第3回  どうでもいいから、どうでもよくない

聞くところによれば、風紀委員会の役員さんたちと担当の先生方との話し合いの場で、生徒から次のような意見が出たそうです。

「服装点検を生徒の手だけでやるのには限界がある。その上、違反している生徒に対して見て見ぬ振りをしている先生もいる。先生たちは服装違反をどうでもいいことだと思っているのか?!」

それを受けて、担当の先生から「風紀委員さんたちがクラスで服装チェック≠する際に、担任の先生もぜひ協力してほしい」と要請がありました

そこで、第2回でストップしていたこのシリーズを、久しぶりに再開します。

「決まったルールはみんなで守ろう」という前に、「そのルールは誰のために誰が決め、誰が変えられるのか」という事が問題にされるべきです。そして、そのもう一つ前に「ルールを作らねばならないほどの問題とは何かが共通認識とされること」が必要です。

髪の毛の色や何を身に付けるのかということは本来個人が決めることであり、誰かに強制されるものではありません。未成年であれば保護者の了解があればどうでもよい≠アとなのです。

そのどうでもよい≠アとをルール(法律や校則)でどうでもよくないこと≠ノしようとするならば、ルールを守らされる人々(=みんな)が納得するだけの根拠の提示や説明が必要となります。

服装や装飾に関する「法律」の一つが「軽犯罪法1条第20号」です。「公衆の目に触れるような場所で公衆に嫌悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」は、拘留又は科料に処すると定めています。

一方、「装飾」についての定めの代表は入れ墨(タトゥー)に関するものです。「京都府青少年健全育成条例24条」では「何人も、正当な理由がある場合を除き、青少年に対し、いれずみを施し、受けさせ、又は周旋してはならない。」と定めています。

また、「暴力団対策法第24条」で「指定暴力団員は、少年に対して入れ墨を施し、少年に対して入れ墨を受けることを強要し、若しくは勧誘し、又は資金の提供、施術のあっせんその他の行為により少年が入れ墨を受けることを補助してはならない。」と定めています。

青少年の服装や装飾に対する規制は、「周りの人にいやな気持ちを起こさせない」ことや「将来取り返しの付かないような身体的な傷をつけさせない」こと、あるいは「反社会的な集団の一員にさせない」ことが目的とされているようです。

では、服装や装飾に対する規制が、常にこうした「保護」を目的とされているのかというと、そうではありません。それは沖縄や奄美の島々に暮らす人々とアイヌ民族を「支配」する歴史の中にありました。

明治政府は、江戸時代からのさまざまな習慣・風俗を禁止したが、そのひとつに「入墨」があり、1872年 (明治5年)に「入墨禁止令」を出しました。

奄美諸島で入墨禁止令が発布されたのは1876(明治9)年5月ですが、入墨=ハズキは、大人の女になったあかしとして、また奄美女性に許された唯一の装飾として女性のあこがれだったため、禁止令は徹底せず、その後もこの風習はひそかに行われたそうです。
(参考:「南東雑輪の世界」http://www.minaminippon.co.jp/bunka/nantou/0721.htm)

沖縄では1899(明32)年に入墨禁止令が出されますが、それは沖縄の文化や土地が奪われていく始まりでした。

塩月亮子さんのホームページ「巫女と遊女の統制史−明治期から昭和初期までの沖縄近代化政策をめぐって−」には次のようにまとめられています。
(参考:http://homepage2.nifty.com/RYOKO/jyuri%20to%20yuta.htm)

「国家による近代化政策は、ユタやジュリの統制に留まらず、ハジチ(女性が成人の印に手に入れた入れ墨)の禁止やモーアシビ(毛遊びといって若い男女がモーとよばれる野原で夜歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止、裸足の禁止、結髪の禁止、和装の奨励、火葬奨励、標準語の励行、衛生観念の普及などを掲げ、それまでみられた多くの慣習が弾圧されるべき悪習として取締りの対象となっていった。

明治32年、沖縄で「入墨禁止令」が施行され、それを破った者は1日の拘留か十銭以上一円以下の科料に処すとされた。
また、モーアシビ(毛遊び)に関しては、これは集落のグループ交際としての機能を果たしていたが、明治30年代になると不純なものとして槍玉に挙げられるようになった。

裸足の禁止については、もう少し時代の下った昭和初期、県の保安課を中心に、県のイメージダウンに繋がる裸足の取締りに乗り出すことが話し合われた結果、昭和16年に「裸足禁止令」が施行され、那覇市内では警察の厳しい取締りがなされたという」

また、この明治32年は「北海道旧土人保護法」という名の「アイヌ文化抹殺法」制定の年です。「アイヌ民族の『明治』」(http://diamond-dust.com/ainu/history-6.html)では、そのことが次のように紹介されています。

「死者が出た場合、信仰的な意味でその家を焼く風習の禁止。男の耳環・女の入墨の禁止。アイヌ語の禁止と日本語の強制。アイヌの伝統的狩猟法である仕掛弓や毒矢の禁止。創氏改名の強制等など。

生活の隅々まで縛り付け、民族の伝統を抹殺する事が目的でした。

後の、アイヌ民族に対する、課税・兵役義務の法的根拠とされたのは、この時期の布達にあると言われています。」

国家権力は、「国家の秩序を維持」し、「野蛮で退廃的な文化を改め」、「遅れた人々を教育し保護する」ためと称して、固有の文化や伝統を破壊しつつ、日本国内の少数民族とアジアの国々を支配していったのです。

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2002年度 2年1組学級通信 「50枚目の手紙」 2002/12/10

茶髪・ピアスを考えるシリーズ 第8回 (最終回)  化粧の力と学校の力

来週月曜日に出発する沖縄修学旅行を前にして、昨日は事前学習の一つとして藤木勇人さん演ずる「一人ゆんたく芝居」を楽しみました。そのユーモラスな表現の裏にある沖縄の人々のおおらかさとしたたかさ、そして人に声をかけ、守るべきものを知ることの大切さを学びました。

藤木さんが芝居の幕間、わざと舞台の上で着替えをしたことの意味が理解できたでしょうか。『日本人』は単一民族などではなくいろんな人種が混ざっているということ=多様性を尊重すべきであるということを自分の体毛が濃いことで示して見せてくれたわけです。

さて、その沖縄旅行に向けてこれまで何度も注意されてきたことの一つが「遅刻をしない」で、もう一つは「風紀違反は許さない」「窃盗・飲酒・喫煙などがあった場合は旅行途中でも沖縄まで親に引取りに来てもらう」です。そして沖縄ホテルには、あの文化祭の時と同じ「黒染めスプレー」や「除光液」が郵送されます。

自然の美と人の優しさ、そして人権・平和を学ぶ沖縄の地で、人格を無視された屈辱的な扱いを2年1組の誰一人もが受けないよう、今日多くの先生方が事のほか気にかけて下さる1組だけ特別に、生活指導係主任の坂本先生による「服装や身だしなみに関するチェック」をお願いしました。

坂本先生から指摘されたことを真摯に受けとめ、自分にとって、あるいはこの学校において何が問題なのかを改めて考え学ぶ機会にしてくれることを心から願ってやみません。

これを機会に、この手紙での「茶髪ピアスを考えるシリーズ」のまとめをしておきたと思います。

まず、2週間ほど前の朝日新聞に載っていた次の記事の紹介を読んでください。

■ 府立高「茶髪生徒は帰宅を」 学習権侵害と要望書 京都弁護士会

20021123日 朝日新聞 朝刊34

京都府亀岡市の府立南丹高校が、校門で頭髪検査をして茶髪の生徒を帰宅させていることについて、京都弁護士会(田畑佑晃会長)は「授業を受ける権利を侵害する」として2002年11月22日、改善を求める要望書を府教委と同校に送ると発表した。

同校の生徒が2002年3月、「学習に直接関係のない頭髪検査で授業が受けられないのは学習権を侵害する」と、同弁護士会に人権救済を申し立てていた。

同弁護士会は生徒や両親、校長らから事情を聴いて調査した結果、「髪の色を選択する自由は幸福追求権の中の人格的自立権、自己決定権の範疇に属する」と判断。茶髪の生徒を帰宅させるのは「授業を受ける時間を制約するもので疑問」と結論付けた。

申し立てた生徒は「オートバイの免許取得・乗車禁止も人権侵害」と訴えた。同弁護士会は権利の制限は最小限にとどめるべきで、「校則による規制は廃止されるべきだ」として、これも要望書に盛り込んだ。

生徒は喫煙など校則違反で自宅謹慎処分になることについても申し立てたが、同弁護士会は「妥当性を欠くとまでは言えない」とした。

同校の斉藤進教頭は「多くの生徒が落ち着いた環境の下で学習する権利を守るための指導であり、指導をやめるつもりはない」と話している。

同じ問題を11月22日の京都新聞WEB NEWSでは「▽茶髪の帰宅指導は、多様な個性をもつ生徒を一律に規制し、権利を侵害する▽オートバイの免許取得禁止は、法律が16歳以上の国民に免許取得の権利を保障しており、廃止されるべき」などと報じています。

さて、ここで二つの権利が出てきました。個人の権利と多くの生徒の権利です。この二つはあたかも対立するものであるかのように見えますが、先週の朝日新聞の『天声人語』の内容を重ねて見るとちゃんと整理できる問題であることに気付くでしょう。

■ 天声人語

20021206日 朝日新聞 朝刊1

▼先日81歳で亡くなった米国の哲学者ジョン・ロールズ氏は「正義」について考え続けた人だった。「20世紀後半最大の哲学者の死」と悼む人も少なくない。

▼ブッシュ米大統領がしばしば口にするような「正義」とは違う。「正義は我にあり」といった議論ではなく、すべての人にあてはまる正義とは何か、をロールズ氏は論じた。考えてみれば、いまの世の中には一部にしか通用しない小さな正義が多いのではないか。

▼知識を「占有」する専門家集団は、しばしば自分たちの側に正義があると思い込みやすい。官僚、医師、弁護士、それに私たちメディアの人間も心しなければならない点だろう。殺人容疑で医師が逮捕された川崎協同病院の事件も、医師の側にそうした過信がありはしなかったか。

▼いわゆる殺意があったかどうかはともかく、死を招く行為であることはわかっていての一連の処置だったらしい。他の医師との相談も十分とはいえなかったようだ。そうした状況の下、自分の判断で人を死に至らしめることへの畏れはなかったのだろうか。逮捕の妥当性の論議は別にしても、医師の倫理は厳しく問われる。

▼ロールズ氏の正義論の核心の一つは、最も不遇な人々のためになるかどうかという発想だった。「最大多数の最大幸福」を求めるのではなく、少数派や弱者の立場を尊重することだった。この事件でいえば、患者やその家族が弱者であろう。

▼いつも弱者の側から考えてみる。医師に限らず、強い立場にある者のつとめだろう。それなくして正義を語ることはできない。

学校では何かと言うとすぐに「事の善悪」を問題にしがちですが、常識の嘘を見破る分析力と権威主義に陥らない判断力を身につけるためには、まず「事の本質」を問題にする意識を養うことが大切でしょう。

今回の「服装や化粧の規則」に関して言うならば、「制服とは何か」「校則とは何か」という問題とともに「化粧とは何か」を問うことが求められます。そして、それらが誰のため・誰の利益を守るためにあるのかを問うことも必要です。

それらすべてを省略して「学校の規則だから生徒は守るのが当たり前」としてしまったのでは思考停止を強制していることにしかならず、「平和な民主国家の主権者」に成長することとまったく相反する行為に他なりません。

それはまた、生徒にとっての不幸であるばかりではなく教師にとっての不幸でもあるのです。

2002年11月26日配信の『よみうり教育メールvol.540』には、トイレ掃除をめぐって悪くなった生徒との関係をどう修復したらよいか悩む青森県の25歳の女性教師の相談に対し、「つくば子どもと教育相談センター」代表の志賀伸三郎さんは次のような回答をしています。

【回答】

子供と心が通い合うことは、教師としてとても大切なことの一つです。よく学校や家庭の中で交わされる言葉に、「子供が見えない」「子供の心理が分からない」というのがあります。その最大の原因は「一つの枠やカテゴリーを固めて、それに合致しているかどうかで見てしまう」ことです。

こんな話があります。ある中学校では女子の髪の長さが決まっていましたが、それを撤廃しました。しばらくして教師に、「自由にして何が変わりましたか」と聞いたところ、「子供の顔を見るようになった」と。それまでは顔を見ず髪の長さばかり見ていたので、生徒がいろんな表情をして学校生活を送っていたことに気づかなかった、彼らの顔を見るうちに一人ひとりの個性が少しずつ理解できるようになったというのです。

あなたはトイレ監督者としての立場で、その生徒との関係を考えていませんか。それを続けている限り、うまくいきません。関係打開は、教師の方から働きかけない限り、生徒の方からは決してありません。生徒を理解する基本は、「子供の表面に現れたことのみに反応せず、迷ったり、もがいたり、突っ張ったりしているその子供の心に共感する」ことではないでしょうか。

教師が自分の「行き方(生き方)」に迷っているように、子供もまた迷っています。その子供に何とかして援助の手を差し伸べ、共に考えていくこと。そういう教師の誠意ある働きかけを通し、彼らの心を和やかなものにした時、初めて教師の意図や指導する意味が分かるのだと思います。

自分の気持ちを分かってくれる友や教師が一人でも存在すると分かった時、その子の心は癒やされ、元気になるものです。その生徒と心を通わせるにはどうすればよいのか、その方法はあなたにお任せします。

さて、ここでも一度「茶髪・ピアス」にもどってみたいと思います。「化粧とは何か?」です。

このシリーズで、これまでに触れてきたことと重なりますが、「化粧の力」を次の三つに整理して考えてみましょう。それは@惹きつける力、A変化させる力、B守る力です。

@ 惹きつける力

今年もキラキラ入りの口紅がはやっていますが、なぜ唇を強調するのか。その一つの仮説として「性的成熟のサイン説」があります。人間だけが血色のよい唇を持っているのは二足歩行することにより目立たなくなった「女性の外性器の代用」だというのです。唇を真っ赤に塗ることで性的に成熟したことをオスに知らせてOKサインを出しているというのです。

一方、マスカラやアイシャドーで目を大きく見せる行為の仮説は「愛情誘引説」。幼児の顔は大人より丸顔で小さく、その分目玉の占める面積の比率が大きい。多くの動物は、そうした大きな目玉を見て「守って可愛がってやりたい」と感ずるのだそうです。

化粧は、特定のパターンを強調することによって異性・同性を問わず相手を惹きつける力を持っているということでしょうか。このことを大きく捕えて、化粧をしている中・高校生を「色気づきやがって」となじる大人は多いようです。

しかし学校という教育の場=子供の成長を支える場では、次の二つの「力」をより重視すべきだと思います。

A 変化させる力

青虫がさなぎを経て美しい蝶に変身していくように、人間もその内面の変化に応じてその外見を変化させていきます。そしてそれ以上に、外見を意識的に変化させることにより内面の変化を促そうとさえします。

小さな子供がお母さんの化粧道具をこっそり使って大人になった気分を味わうのはよくあることです。思春期を迎えて実年齢以上の自分を化粧によって作り上げたいと願う少女がいる一方、年を重ねて実年齢以下の若々しさを取り戻そうとする成人女性もします。

こうした変身は単なる外見だけの見かけみせかけ・子供だましのこけおどしではなく、精神にも深く関わっています。

最近、全国の老人ホームやデイケアセンターなどで「おばあちゃんの化粧教室」がひそかなブームになりつつあるようです。ボケが進んで生気もなくなりかけていた老人が、化粧をすることで生活の張りを取り戻し、対人関係も活性化するというのです。

さらに、この前も話しましたが、不登校の長いトンネルを抜け出そうとした少女が茶髪・ピアスで登校してきたように、これまでの自分と決別する=これまで自分を縛っていた規範を破壊して新たな自分を創造するために「化粧の力」を借りることは大いに有効なのです。

B 守る力

守るといった場合、二つの要素が考えられます。一つは外から入り込んでくるものから自分の内部を守ること。もう一つは自分の表面の傷や衰えはもちろんのこと、内面の弱さ、傷つきやすさ、不安定さ、自信のなさが他人の目に触れないように守ること。

一つ目の化粧は太古から呪術的な化粧として世界中の民族で発達してきました。魔物や邪気が体に入り込まないよう口や目や鼻など体に開いている「穴」の周りや、手先や指などいろいろなものに触れる「先端」に色を塗ったり、刺青をしてきました。

二つ目の化粧は、表面については誰もがすぐに想像が付き、理解もされやすいのですが、内面に関しては隠すことがあたかも悪いことであるかのように言われたり、さらけ出すことが勇気ある行為であるかのように思われることもあり、なかなか理解されません。

自分のイメージと違う弱々しくて頼りない自分、誰にも知られたくない醜さを抱えた自分、不安定で落ち込みがちでそのくせイライラし続けている自分。自分で認めたくない自分を心の中に抱えているとき、そんな自分を外に出さない=外から見られないバリアとして化粧の力を借りようとすることもあります。

のままではとっても人前に出ることなどできない自分を、自分が求める元気そうな、つややかな、張りのある、魅力的な自分に装うことで、何とか心のバランスを保って人と関わろうとする。

それを誤魔化しだとかまやかしだとか言うことは、その人の抱える辛さを理解できない鈍感さ、想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう。

溺れてあがく人の姿をみっともなくてカッコ悪いと言う人はいないでしょう。

しかし哀しいことに、そうした化粧の力を借りながら何とか成長しようとしている少年少女を「規則の枠に入らない不良品」のように扱う学校も世間には数多くあるのです。

「2年1組41人。誰欠けることなく全員で、楽しい修学旅行の思い出を作りたい。」

そのために今できることは、一緒にいても大丈夫だと安心できる「空気」をつくること。

そのために「声」を掛け合うこと。そして補い合うこと。

そのために「想像力」を働かせること。

樽の中には腐ったリンゴなど一個もありません。あるのは未熟なリンゴだけなのです。


 こうした担任指導は、時に学校全体の指導からの「逸脱」ととらえられ批判の対象となるかもしれない。しかしそれを批判するのであれば、中学・高校の別を越えた発展的な問題解消のための議論の場を、学校組織として保障すべきである。

 U ジェンダーロールからの解放と新たなモデルの提示 へ続く


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