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茶髪とピアスを考えるシリーズ
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茶髪・ピアスを考えるシリーズ

第8回 (最終回)  化粧の力と学校の力


2002年度 50枚目 2002/12/10

来週月曜日に出発する沖縄修学旅行を前にして、昨日は事前学習の一つとして藤木勇人さん演ずる「一人ゆんたく芝居」を楽しみました。そのユーモラスな表現の裏にある沖縄の人々の“おおらかさとしたたかさ”、そして人に“声をかけ、守るべきものを知ること”の大切さを学びました。

藤木さんが芝居の幕間、わざと舞台の上で着替えをしたことの意味が理解できたでしょうか。『日本人』は単一民族などではなくいろんな人種が混ざっていてるということ=多様性を尊重すべきであるということを自分の体毛が濃いことで示して見せてくれたわけです。

さて、その沖縄旅行に向けてこれまで何度も注意されてきたことの一つが「遅刻をしない」で、もう一つは「風紀違反は許さない」「窃盗・飲酒・喫煙などがあった場合は旅行途中でも沖縄まで親に引取りに来てもらう」です。そして沖縄ホテルには、あの文化祭の時と同じ「黒染めスプレー」や「除光液」が郵送されます。

自然の美と人の優しさ、そして人権・平和を学ぶ沖縄の地で、人格を無視された屈辱的な扱いを2年1組の誰一人もが受けないよう、今日多くの先生方が事のほか気にかけて下さる1組だけ特別に、生活指導係主任の坂本先生による「服装や身だしなみに関するチェック」をお願いしました。

坂本先生から指摘されたことを真摯に受けとめ、自分にとって、あるいはこの学校において“何が問題なのかを改めて考え学ぶ機会”にしてくれることを心から願ってやみません。

これを機会に、この手紙での「茶髪ピアスを考えるシリーズ」のまとめをしておきたと思います。


まず、二週間ほど前の朝日新聞に載っていた次の記事の紹介を読んでください。

 府立高「茶髪生徒は帰宅を」 学習権侵害と要望書 京都弁護士会
2002年11月23日 朝日新聞 朝刊34面

京都府亀岡市の府立南丹高校が、校門で頭髪検査をして茶髪の生徒を帰宅させていることについて、京都弁護士会(田畑佑晃会長)は「授業を受ける権利を侵害する」として2002年11月22日、改善を求める要望書を府教委と同校に送ると発表した。

同校の生徒が2002年3月、「学習に直接関係のない頭髪検査で授業が受けられないのは学習権を侵害する」と、同弁護士会に人権救済を申し立てていた。

同弁護士会は生徒や両親、校長らから事情を聴いて調査した結果、「髪の色を選択する自由は幸福追求権の中の人格的自立権、自己決定権の範疇に属する」と判断。茶髪の生徒を帰宅させるのは「授業を受ける時間を制約するもので疑問」と結論付けた。

申し立てた生徒は「オートバイの免許取得・乗車禁止も人権侵害」と訴えた。同弁護士会は権利の制限は最小限にとどめるべきで、「校則による規制は廃止されるべきだ」として、これも要望書に盛り込んだ。

生徒は喫煙など校則違反で自宅謹慎処分になることについても申し立てたが、同弁護士会は「妥当性を欠くとまでは言えない」とした。

同校の斉藤進教頭は「多くの生徒が落ち着いた環境の下で学習する権利を守るための指導であり、指導をやめるつもりはない」と話している。


同じ問題を11月22日の京都新聞WEB NEWSでは「▽茶髪の帰宅指導は、多様な個性をもつ生徒を一律に規制し、権利を侵害する▽オートバイの免許取得禁止は、法律が16歳以上の国民に免許取得の権利を保障しており、廃止されるべき」などと報じています。


さて、ここで二つの権利が出てきました。個人の権利と多くの生徒の権利です。この二つはあたかも対立するものであるかのように見えますが、先週の朝日新聞の『天声人語』の内容を重ねて見るとちゃんと整理できる問題であることに気付くでしょう。

天声人語
2002年12月06日 朝日新聞 朝刊1面

▼先日81歳で亡くなった米国の哲学者ジョン・ロールズ氏は「正義」について考え続けた人だった。「20世紀後半最大の哲学者の死」と悼む人も少なくない。

▼ブッシュ米大統領がしばしば口にするような「正義」とは違う。「正義は我にあり」といった議論ではなく、すべての人にあてはまる正義とは何か、をロールズ氏は論じた。考えてみれば、いまの世の中には一部にしか通用しない小さな正義が多いのではないか。

▼知識を「占有」する専門家集団は、しばしば自分たちの側に正義があると思い込みやすい。官僚、医師、弁護士、それに私たちメディアの人間も心しなければならない点だろう。殺人容疑で医師が逮捕された川崎協同病院の事件も、医師の側にそうした過信がありはしなかったか。

▼いわゆる殺意があったかどうかはともかく、死を招く行為であることはわかっていての一連の処置だったらしい。他の医師との相談も十分とはいえなかったようだ。そうした状況の下、自分の判断で人を死に至らしめることへの畏れはなかったのだろうか。逮捕の妥当性の論議は別にしても、医師の倫理は厳しく問われる。

▼ロールズ氏の正義論の核心の一つは、最も不遇な人々のためになるかどうかという発想だった。「最大多数の最大幸福」を求めるのではなく、少数派や弱者の立場を尊重することだった。この事件でいえば、患者やその家族が弱者であろう。

▼いつも弱者の側から考えてみる。医師に限らず、強い立場にある者のつとめだろう。それなくして正義を語ることはできない。


学校では何かと言うとすぐに「事の善悪」を問題にしがちですが、常識の嘘を見破る分析力と権威主義に陥らない判断力を身につけるためには、まず「事の本質」を問題にする意識を養うことが大切でしょう。

今回の「服装や化粧の規則」に関して言うならば、「制服とは何か」「校則とは何か」という問題とともに「化粧とは何か」を問うことが求められます。そして、それらが誰のため・誰の利益を守るためにあるのかを問うことも必要です。

それらすべてを省略して「学校の規則だから生徒は守るのが当たり前」としてしまったのでは思考停止を強制していることにしかならず、「平和な民主国家の主権者」に成長することとまったく相反する行為に他なりません。

それはまた、生徒にとっての不幸であるばかりではなく教師にとっての不幸でもあるのです。


2002年11月26日配信の『よみうり教育メールvol.540』には、トイレ掃除をめぐって悪くなった生徒との関係をどう修復したらよいか悩む青森県の25歳の女性教師の相談に対し、「つくば子どもと教育相談センター」代表の志賀伸三郎さんは次のような回答をしています。

【回答】

子供と心が通い合うことは、教師としてとても大切なことの一つです。よく学校や家庭の中で交わされる言葉に、「子供が見えない」「子供の心理が分からない」というのがあります。その最大の原因は「一つの枠やカテゴリーを固めて、それに合致しているかどうかで見てしまう」ことです。

こんな話があります。ある中学校では女子の髪の長さが決まっていましたが、それを撤廃しました。しばらくして教師に、「自由にして何が変わりましたか」と聞いたところ、「子供の顔を見るようになった」と。それまでは顔を見ず髪の長さばかり見ていたので、生徒がいろんな表情をして学校生活を送っていたことに気づかなかった、彼らの顔を見るうちに一人ひとりの個性が少しずつ理解できるようになったというのです。

あなたはトイレ監督者としての立場で、その生徒との関係を考えていませんか。それを続けている限り、うまくいきません。関係打開は、教師の方から働きかけない限り、生徒の方からは決してありません。生徒を理解する基本は、「子供の表面に現れたことのみに反応せず、迷ったり、もがいたり、突っ張ったりしているその子供の心に共感する」ことではないでしょうか。

教師が自分の「行き方(生き方)」に迷っているように、子供もまた迷っています。その子供に何とかして援助の手を差し伸べ、共に考えていくこと。そういう教師の誠意ある働きかけを通し、彼らの心を和やかなものにした時、初めて教師の意図や指導する意味が分かるのだと思います。

自分の気持ちを分かってくれる友や教師が一人でも存在すると分かった時、その子の心は癒やされ、元気になるものです。その生徒と心を通わせるにはどうすればよいのか、その方法はあなたにお任せします。


さて、ここでも一度「茶髪・ピアス」にもどってみたいと思います。「化粧とは何か?」です。

このシリーズで、これまでに触れてきたことと重なりますが、「化粧の力」を次の三つに整理して考えてみましょう。それは@惹きつける力、A変化させる力、B守る力です。

@ 惹きつける力

今年もキラキラ入りの口紅がはやっていますが、なぜ唇を強調するのか。その一つの仮説として「性的成熟のサイン説」があります。人間だけが血色のよい唇を持っているのは二足歩行することにより目立たなくなった「女性の外性器の代用」だというのです。唇を真っ赤に塗ることで性的に成熟したことをオスに知らせてOKサインを出しているというのです。

一方、マスカラやアイシャドーで目を大きく見せる行為の仮説は「愛情誘引説」。幼児の顔は大人より丸顔で小さく、その分目玉の占める面積の比率が大きい。多くの動物は、そうした大きな目玉を見て「守って可愛がってやりたい」と感ずるのだそうです。

化粧は、特定のパターンを強調することによって異性・同性を問わず相手を惹きつける力を持っているということでしょうか。このことを大きく捕えて、化粧をしている中・高校生を「色気づきやがって」となじる大人は多いようです。

しかし学校という教育の場=子供の成長を支える場では、次の二つの「力」をより重視すべきだと思います。


A 変化させる力

青虫がさなぎを経て美しい蝶に変身していくように、人間もその内面の変化に応じてその外見を変化させていきます。そしてそれ以上に、外見を意識的に変化させることにより内面の変化を促そうとさえします。

小さな子供がお母さんの化粧道具をこっそり使って大人になった気分を味わうのはよくあることです。思春期を迎えて実年齢以上の自分を化粧によって作り上げたいと願う少女がいる一方、年を重ねて実年齢以下の若々しさを取り戻そうとする成人女性もします。

こうした変身は単なる“外見だけの見かけみせかけ・子供だましのこけおどし”ではなく、精神にも深く関わっています。

最近、全国の老人ホームやデイケアセンターなどで「おばあちゃんの化粧教室」がひそかなブームになりつつあるようです。ボケが進んで生気もなくなりかけていた老人が、化粧をすることで生活の張りを取り戻し、対人関係も活性化するというのです。

さらに、この前も話しましたが、不登校の長いトンネルを抜け出そうとした少女が茶髪・ピアスで登校してきたように、これまでの自分と決別する=これまで自分を縛っていた規範を破壊して新たな自分を創造するために「化粧の力」を借りることは大いに有効なのです。


B 守る力

守るといった場合、二つの要素が考えられます。一つは外から入り込んでくるものから自分の内部を守ること。もう一つは自分の表面の傷や衰えはもちろんのこと、内面の弱さ、傷つきやすさ、不安定さ、自信のなさが他人の目に触れないように守ること。

一つ目の化粧は太古から呪術的な化粧として世界中の民族で発達してきました。魔物や邪気が体に入り込まないよう口や目や鼻など体に開いている「穴」の周りや、手先や指などいろいろなものに触れる「先端」に色を塗ったり、刺青をしてきました。

二つ目の化粧は、表面については誰もがすぐに想像が付き、理解もされやすいのですが、内面に関しては“隠す”ことがあたかも悪いことであるかのように言われたり、さらけ出すことが“勇気ある行為”であるかのように思われることもあり、なかなか理解されません。

自分のイメージと違う弱々しくて頼りない自分、誰にも知られたくない醜さを抱えた自分、不安定で落ち込みがちでそのくせイライラし続けている自分。自分で認めたくない自分を心の中に抱えているとき、そんな自分を外に出さない=外から見られないバリアとして化粧の力を借りようとすることもあります。

“素”のままではとっても人前に出ることなどできない自分を、自分が求める元気そうな、つややかな、張りのある、魅力的な自分に装うことで、何とか心のバランスを保って人と関わろうとする。

それを誤魔化しだとかまやかしだとか言うことは、その人の抱える辛さを理解できない鈍感さ、想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう。

溺れてあがく人の姿をみっともなくてカッコ悪いと言う人はいないでしょう。

しかし哀しいことに、そうした化粧の力を借りながら何とか成長しようとしている少年少女を「規則の枠に入らない不良品」のように扱う学校も世間には数多くあるのです。


「2年1組41人。誰欠けることなく全員で、楽しい修学旅行の思い出を作りたい。」

そのために今できることは、一緒にいても大丈夫だと安心できる「空気」をつくること。

そのために「声」を掛け合うこと。そして補い合うこと。

そのために「想像力」を働かせること。

樽の中には“腐ったリンゴ”など一個もありません。あるのは“未熟なリンゴ”だけなのです。

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茶髪・ピアスを考えるシリーズ

第7回   『声』から考える A  先生の声


2002年度 27枚目 2002/7/1

前回、茶髪のために隔離授業≠させられた京都市の中学生の事件≠ノかかわる中・高校生と母親の投書(朝日新聞の『声』)を紹介しました。今回は、高校講師の先生の少し違った視点の投書を紹介します。

茶髪もミニも調理は大好き
2002/06/12 横浜市 高校講師 44才 森谷節子
高校で家庭科を教えている。茶髪、ミニスカート姿の生徒も調理実習は大好きで、ぎこちない手つきではあるが喜んで作業する。先日、サラダに使うキュウリを洗剤の付いたスポンジでゴシゴシ洗っている生徒を見つけた。
声を掛けると「だって、イボイボが気持ち悪いんだもん」。隣の班の生徒は、つけづめがはがれて大騒ぎ。

男子の班はレシピとにらめっこで一字一句見逃さないように注意深く作業を進めている。「鶏肉の皮目の方から焼く」という一節が分からない。いったい皮目って何だ、と首をかしげる。

多少の失敗はあっても、試食では自分たちで作ったものを満足そうに食べていた。半数以上が朝食を食べる習慣がないのだ。

こんな場面にあきれたり笑ったりする人は多いだろう。だが、彼らを育ててきたのは現在40代、50代の親たちだ。

高校生になったからと、子育てから手を引いてないだろうか。彼らはまだ大人ではない。目をかけ、声をかけてあげて欲しい。そして、一日一回でも一緒に食事をして欲しい。

この投書をした森谷さんの学校で茶髪が公認≠ウれているのは触れられていません。しかし、「茶髪、ミニスカートの生徒も」とあえて取り立てている所から、茶髪やミニが自然な存在と認められているわけではないようです。

その上で、茶髪そのものに対する是非を論ずるのではなく、大切にすべきだと考えるもの=親子で一緒に食事することを提案しているところに、この投書のユニークさがあります。

私たちは、自分のモノサシではなく、そこに用意されているモノサシ≠ナ人の行動や人格を計りがちです。学校で茶髪やピアスが禁止されていると、それを守っているかどうかで、その人の評価が決まるかのように錯覚します。
そして、そのモノサシは、時には通知票の5段階になったり、模擬試験の偏差値になったりします。

独り善がりなモノサシ≠ヘ、多くの人に受け入れれられず疎まれるでしょう。同時に、特定の社会の中でしか意味をなさないモノサシ≠、絶対的なもののように思い込んでしまう事は、恐ろしく危険なことです。

「髪の毛が何色かというモノサシ」で何をはかっているのか。もし、それがルール=公共の秩序を守る正義感≠竍公共心≠はかるモノサシだというならば、まず「髪の毛の色によって、反社会的・反道徳的であるかどうかが決まるのか」どうかを問題にすべきです。
それなくして、そのモノサシをあてはめようとするのは、単にダメと言われたことをしない従順さをはかっている≠ニいわれても仕方ないでしょう。

子も親も教師も、いったい何を見ているのか。姿・形≠ノ現われたものは何を意味し、どう評価できるのか。私たちは何を支え、どう育てていこうとしているのか。

子どもも大人も、たいていの人は人にツラレやすくクジケやすいものでしょう。だからこそ、自分が何を大切にしようとしている人なのかを時々点検する機会が必要です。そういう意味では服装点検≠竍風紀チェック≠煦モ味があるといえるでしょう。


つづく
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第6回  『声』から考える @  子どもと親の声

2002年度 26枚目 2002/6/29

今年(2002年)の5月11日に次のような記事が朝日新聞に載りました。
同日付けの京都新聞でも報じられています)


茶髪の生徒「隔離」授業/京都市の市立中「ルールを教えるため
京都市の市立中学校で、3年の男子生徒(14)が髪を茶色に染めていることを理由に、4月中旬から本来の教室とは別の部屋で1人で授業を受けさせられていたことが2002年5月10日わかった。

生徒の母親は「学校は息子の自己決定権を奪っている」と主張。これに対し、中学校側は「やむを得ない指導で、髪を黒に戻さない限り、このまま続ける」としている。

母親や中学校などによると、男子生徒は4月に他県の中学校から転校。この際、前の中学で昨年夏から続けていた私服通学と茶髪を認めてくれるよう学校に求めた。

中学校は私服通学は許可したが、茶髪は校則違反だとして認めなかった。中学側は始業式前など2度にわたって、髪を黒く染めるよう男子生徒に指導したが、従わなかったため、4月15日からカウンセリングルームでの授業を始めた。


男子生徒は「先生に監視され、自由がない」と言い、その後は4日しか登校していないという。

中学校の
校長は「ほかの生徒への影響が及ぶことを防止し、生徒本人の生活の乱れを正して、学校のルールを教えるために、緊急に対策を取る必要があった」と説明している。

また、京都市
教育委員会企画課は「別室指導が長期にわたるのは好ましくないが、現時点では中学校の対応は正しいと考えている。十分配慮しており、学習権の侵害には当らない」としている。

六甲カウンセリング研究所長で、神戸海星女子学院大の井上敏明(臨床教育学)の話し

「学校側が「『茶髪』イコール不良」という古い価値観を押し付けているだけのように見える。生徒の反発の背景に何があるか、教師は考えるべきではないか。」


これに対し朝日新聞の投書欄『声』では6月12日までに、5人の意見が掲載されました。今日は、その内の三人分を紹介します。女子中学生・男子高校生・高校生の母、三者それぞれの思いが身にしみます。

中学生授業妨害など問題ないか
2002/05/17 大阪府/池田市  中学生 熊谷早記
先日、茶髪の生徒を隔離授業したという京都市の中学校の記事を読みました。その茶髪の生徒の母親は「子どもの自由決定権を奪っている」といっているそうですが、それは考え方が少し間違っていると思いました。

私の学校にも髪を染めている子がたくさんいます。そういう子に限って授業を妨害します。その度に先生が注意し授業が止められます。真剣に授業を受けている生徒の権利を奪っているのではないでしょうか。

校則で髪を染めるなと決まっているなら、染める必要はないはずです。どうしても染めたいなら、規則に縛られない大人になってから染めればいいのです。

生徒として好ましい格好ではないから、髪を染めるなといわれているのです。

髪を染めている子はすべて悪い子だというのは偏見かもしれないけれど、校則を破っている時点で、そう思われても仕方がないのではないでしょうか。


茶髪の生徒の隔離 校則を変える方向で解決
2002/05/2  滋賀県/草津市  高校生 伊藤洋輔
17日の「授業妨害など問題はないか」について。生徒として好ましい格好とは皆、同じ色で同じ髪形をした人間ですか。
では、あなたの言う茶髪の生徒は髪の色をもとに戻せば、授業をまじめに受けるのですか。また、教師はその生徒をまじめに勉強させられないのでしょうか。

実際、進学校でも茶髪が許されているところはあります。なぜなら、彼らは茶髪にしてもしっかり勉強はするし、社会のルールも守っているからです。
事の始めの、母親の意見が載っている記事を見るとなんともいえない気持ちになりました。
茶髪の生徒は見せしめのために隔離授業をするとは。人権侵害を受けたその生徒は学校に行っていないそうです。

人権教育が学校でもなされている現在、こんなことが日本であるなんてがく然としました。

高校と違い、義務教育である中学校では、茶髪にした生徒は見せしめの隔離授業をするという同意のもとで入学するわけではありません。

皆、しぶしぶ納得するのではなく、校則を変えていけばよいのです。

不登校になった生徒や保護者たちもあきらめずに、おかしいものはおかしいと言っていかなければならないと思います。


娘の行為なぜ 葛藤の日々も
2002/06/12 大阪府/寝屋川市  主婦  広谷悦子
高校2年生の娘は今、無期停学中で自宅に居ます。入学してすぐの昨年(2001)5月。喫煙行為で最初の停学処分。以降、学校での携帯電話所持・使用、夏休み明けの茶髪などで回を重ね、前代未聞の行為ということで、転校を申し渡されました。

初めて停学処分を聞いた時は、耳を疑いました。私の青春時代と正反対の学生生活を過ごしている娘を、どう受けとめたらいいのか。葛藤の日々でした。

でも、家に居る娘は、何の変哲もない、親をそのまま子どもに戻したような天真爛漫な17歳なのです。

校則違反を繰り返しながらも、何が楽しいのか、毎日学校に通い、最後まで自分は弱者にならないとたかをくくっていた娘。

親は、高いおきゅう代と吐き捨てることで、何とか怒りを消化できますが、娘はどう受けとめているのでしょう。どこにぶつけたらいいのかわからない怒りを心に秘めながら、冷静に考えました。

私は私、娘は娘で自分の気持ちを正直に表していくことが、最良の道と感じています。


茶髪≠ヘ、学校とは「生徒が何をどう学んでいく=教師や親が何をどう育てる場なのか」を問いかけています。

つづく
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第5回 犬でも猫でも羊でもなく

2002年度 25枚目 2002/06/27

今日は一学期最初の服装点検≠フ最終日でした。三日間ともチェックされた人は「生徒部へのお呼び出し」ということのようですが、昨日も終礼で言ったように、みんなのとるべき道は、基本的に次の二つに一つです。

今あるルールを「是として守る」か、「非として闘う」かです。

もちろん、上手にごまかしながらのらりくらりと逃げ回ったり、その場しのぎでやり過ごすという選択肢もあるでしょう。

特に、千年の長きに渡って戦乱や権力闘争をかいくぐってきた京都の町の文化の中では、表立っては波風立つような争いごとはせず、それでいてしたたかに自分の価値を守るという芸当≠ェ尊重されてきました。(それが得意なお母さんも多いのかも)

卒業後、社会の荒波を乗り切って生きていくには、学校という閉鎖的で特殊な世界の中だけでしか通用しないルール≠ノ素直に適応するのと同じぐらい、そうした伝統に裏打ちされた処世術、柔軟性や生活力を身につけていくことは、大切なことかもしれません。

でもね、僕はみんなにも
ちゃんとした自尊心≠持った生活をしてもらいたいのです。

つまり、もし不条理や矛盾だと思えるものがあるならば、「理由もわからずに押し付けられたものを、理由もわからずに受け入れていくのが、生き物のさだめだ」と嘆いてあきらめるのでもなく、「刻苦をいとう怠惰」から「人との交わりを絶って」しまうのでもなく、問題とちゃんと向き合う力を育ててほしいのです。

なぜなら、ここはどこの学校でもなく「京都女子高校」だからです。京女の先生がめざしている教育は1980年の職員会議で決められた次の「教育目標」にのっとっているはずだからです。

(「はじめに」は教育目標の前文。文中の「われわれ」とは京女の先生のことです。)

・はじめに

 教育は青少年が現代社会の構成員として、人類の文化遺産を受け継ぎ、自らの人格を完成させ、平和な社会をさらに発展させることを可能ならしめることを目標とする活動である。

 われわれは憲法、教育基本法の精神に基づき、青少年の教育の中で、学校教育、特に前期及び後期中等教育の果たす役割の重要性を自覚し、さらに本学園の建学の精神にのっとり、次のような教育目標を設定する。

 それぞれの目標は単独に達成されるものではなく、相互に関連して総合的に達成されるものである。また、目標達成のために必要に応じて、父母、地域とも協力しなければならない。

・教育目標

1. 優れた体力を持ち、意欲的に行動する生徒を育成する。

2. 基礎学力を保障し、さらにそれぞれの進路に適した学力を身につけさせるとともに、自らの力で進路を選べる生徒を育成する。

3. 基本的生活習慣を身につけ、個人の尊厳を重視するとともに、生徒会活動をはじめとする自主活動には積極的に参加し、自治能力を高め、さらに社会の矛盾を見のがさない生徒を育成する。


「教育目標」の基礎となる日本国憲法の前文にはこうあります。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

教育基本法の第1条 教育の目的にはこうあります。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」

学校教育法の第42条 教育の目標の第3項にはこうあります。

社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること

生徒にルールを守れという限り、教師もルール(憲法や法律)を守るべきでしょう。そして、たとえその会議に参加していなくとも職員会議で決まった=自分たちで決めた目標を最大限追求すべきでしょう。

ご主人様にシッポを振る犬でもなく、勝手気ままに振舞う猫でもなく、ましてや犬に吠え立てられながら群れをなしてぞろぞろ歩く羊でもない。夢や理想を胸に抱き、自分の口で仲間と語りあい、ちゃんと自分の二本の足で立った人に、僕もなりたいし、みんなにもなってほしいと願っているのです。


今回の締めくくりに、以前紹介した保護者アンケートの集計を再度掲載しておきます。


1 親も学校も許すべきでない

2
学校の規則で禁止されている限り親も許すべきではない

3 プライバシーに関わる問題なので親が認めればよい
(学校が規制する問題ではない)

4 子どもの成長の表れなので取りたてて問題にすべきではない

5 その他






つづく
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第4回  ノーメイクも一つの演出

2002年度 24枚目 2002/06/26

前回、1899年に沖縄で発布された入れ墨禁止令のことを紹介しましたが、そもそも沖縄の娘さんたちは、なぜ入れ墨をしていたのか。

ポ−ラ文化研究所から発刊されている研究誌「化粧文化No.28特集 沖縄の美」(1993年)に、「南島の入墨習俗…美としての針突」という論文が載っているので、その一部を紹介します。

沖縄でのアンケート調査による「入れ墨の理由」は地域によって差が出たそうです。

沖縄本島では「針突(ハジチ=入れ墨)をしないと大和に連れて行かれる」が42%を占めて最も多く、宮古島地方では「針突きをしないと後生(あの世)に行けない」が37%で第一位。

それ以外の理由としては「厄(やく)が払われる」「成女(大人の女)になったしるし」「きれくて自慢したかった」「慣習だから」「遊びで」などだった。


昔から、入れ墨に限らず「化粧」や「装飾」には呪術(宗教)的な意味合いがあることは知られていますが、それをあまりに誇大視することは、歴史や文化を見誤りかねません。

人々は台風や水不足などの自然災害を乗り越え、支配者や侵略者の横暴に耐えつつ、つつましくもたくましく生きてきました。

そうした暮らしの中のささやかな楽しみ、気晴らし、慰めの手段として、化粧や装飾を利用してきたのも歴史的事実なのです。

化粧は「晴れの日」の装いとしての役割もちろんありました。

しかし、小さな子どもが野の花を摘んで染料を作り、お化粧ごっこをして遊んだ様に、少しでも明るく暮らせるように体を飾ってきた生活の歴史がありました。

だからこそ、入れ墨禁止令は徹底せず、政府の厳しい取締りにもかかわらず風習はひそかに引き継がれたのです。

化粧や装飾のもう一つの役割に、自分を目立たせ異性をひきつけるという重要な役割があります。

多くの動物の場合、メスは外敵に襲われにくいように地味な姿をしていますが、オスはメスに選んでもらうために、特に繁殖期になるとハデな姿や目立つ行動(ディスプレイ)をしています。

人間の文明社会≠ナは、男は生活を支えるために地味な姿をし、女は着飾って男を誘惑してきたと言う人もいますが、様々な社会の制約の中で、互いが精一杯求め合ってきたというのが本当のところではないでしょうか。

男女を問わず誰の心の底にも「誰とも違う自分を、誰かに認めてもらいたい」と願う気持ちがあるはずです。

それは生と性の自然な欲求≠ナあり、その自然な表現方法≠フ一つが化粧や装飾といえるでしょう。

近代文明の中では、ノーメイクに洗いざらしのシャツも、厚化粧に着飾ったブランド品も、自分らしさの演出≠セといえます。

そのどちらを選ぶかは趣味の問題なのに、それを善悪や高低の問題に置き換えようとするのは、そこに別の意図あるからです。

それを見極める目を養わなければ一人前の社会人≠ノはなれません。

つづく
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第3回  どうでもいいから、どうでもよくない

2002年度 23枚目 2002/06/25

聞くところによれば、風紀委員会の役員さんたちと担当の先生方との話し合いの場で、生徒から次のような意見が出たそうです。

「服装点検を生徒の手だけでやるのには限界がある。その上、違反している生徒に対して見て見ぬ振りをしている先生もいる。先生たちは服装違反をどうでもいいことだと思っているのか?!」

それを受けて、担当の先生から「
風紀委員さんたちがクラスで服装チェック≠する際に、担任の先生もぜひ協力してほしい」と要請がありました。

そこで、第2回でストップしていたこのシリーズを、久しぶりに再開します。

「決まったルールはみんなで守ろう」という前に、「そのルールは誰のために誰が決め、誰が変えられるのか」という事が問題にされるべきです。そして、そのもう一つ前に「ルールを作らねばならないほどの問題とは何か」が共通認識とされることが必要です。

髪の毛の色や何を身に付けるのかということは本来個人が決めることであり、誰かに強制されるものではありません。未成年であれば保護者の了解があればどうでもよい≠アとなのです。

そのどうでもよい≠アとをルール(法律や校則)でどうでもよくないこと≠ノしようとするならば、ルールを守らされる人々(=みんな)が納得するだけの根拠の提示や説明が必要となります。


服装や装飾に関する「法律」の一つが「軽犯罪法」第1条第20号です。「公衆の目に触れるような場所で公衆に嫌悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」は、拘留又は科料に処すると定めています。

一方、「装飾」についての定めの代表は入れ墨(タトゥー)に関するものです。「京都府青少年健全育成条例 第24条」では「 何人も、正当な理由がある場合を除き、青少年に対し、いれずみを施し、受けさせ、又は周旋してはならない。」と定めています。

また、「暴力団対策法」第24条で「指定暴力団員は、少年に対して入れ墨を施し、少年に対して入れ墨を受けることを強要し、若しくは勧誘し、又は資金の提供、施術のあっせんその他の行為により少年が入れ墨を受けることを補助してはならない。」と定めています。

青少年の服装や装飾に対する規制は、「周りの人にいやな気持ちを起こさせない」ことや「将来取り返しの付かないような身体的な傷をつけさせない」こと、あるいは「反社会的な集団の一員にさせない」ことが目的とされているようです。


では、服装や装飾に対する規制が、常にこうした「保護」を目的とされているのかというと、そうではありません。それは沖縄や奄美の島々に暮らす人々とアイヌ民族を「支配」する歴史の中にありました。

明治政府は、江戸時代からのさまざまな習慣・風俗を禁止したが、そのひとつに「入墨」があり、1872年 (明治5年)に「入墨禁止令」を出しました。

奄美諸島で入墨禁止令が発布されたのは1876(明治9)年5月ですが、入墨=ハズキは、大人の女になったあかしとして、また奄美女性に許された唯一の装飾として女性のあこがれだったため、禁止令は徹底せず、その後もこの風習はひそかに行われたそうです。(参考:「南東雑輪の世界」http://www.minaminippon.co.jp/bunka/nantou/0721.htm

沖縄では1899(明32)年に入墨禁止令が出されますが、それは沖縄の文化や土地が奪われていく始まりでした。「巫女と遊女の統制史−明治期から昭和初期までの沖縄近代化政策をめぐって−」(http://homepage2.nifty.com/RYOKO/jyuri%20to%20yuta.htm)には次のようにまとめられています。

「国家による近代化政策は、ユタやジュリの統制に留まらず、ハジチ(女性が成人の印に手に入れた入れ墨)の禁止やモーアシビ(毛遊びといって若い男女がモーとよばれる野原で夜歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止、裸足の禁止、結髪の禁止、和装の奨励、火葬奨励、標準語の励行、衛生観念の普及などを掲げ、それまでみられた多くの慣習が弾圧されるべき悪習として取締りの対象となっていった。

明治32年、沖縄で「入墨禁止令」が施行され、それを破った者は1日の拘留か十銭以上一円以下の科料に処すとされた。
また、モーアシビ(毛遊び)に関しては、これは集落のグループ交際としての機能を果たしていたが、明治30年代になると不純なものとして槍玉に挙げられるようになった。

裸足の禁止については、もう少し時代の下った昭和初期、県の保安課を中心に、県のイメージダウンに繋がる裸足の取締りに乗り出すことが話し合われた結果、昭和16年に「裸足禁止令」が施行され、那覇市内では警察の厳しい取締りがなされたという」

また、この明治32年は「北海道旧土人保護法」という名の「アイヌ文化抹殺法」制定の年です。「アイヌ民族の『明治』」Http://diamond-dust.com/ainu/history-6.html)では、そのことが次のように紹介されています。

「死者が出た場合、信仰的な意味でその家を焼く風習の禁止。男の耳環・女の入墨の禁止。アイヌ語の禁止と日本語の強制。アイヌの伝統的狩猟法である仕掛弓や毒矢の禁止。創氏改名の強制等など。

生活の隅々まで縛り付け、民族の伝統を抹殺する事が目的でした。
後の、アイヌ民族に対する、課税・兵役義務の法的根拠とされたのは、この時期の布達にあると言われています。」

国家権力は、「国家の秩序を維持」し、「野蛮で退廃的な文化を改め」、「遅れた人々を教育し保護する」ためと称して、固有の文化や伝統を破壊しつつ、日本の中の少数民族とアジアの国々を支配していったのです。

つづく
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茶髪・ピアスを考えるシリーズ

第2回   沖縄と広島と京都の記事から

2002年度 16枚目 2002/05/15

今日5月15日は「沖縄祖国復帰の日」ということで、今日の朝終礼では修学旅行委員さんが発行する新聞「海人(うみんちゅう)新聞」の記念すべき第1、2号が配布されました。

さて、みなさんは修学旅行の課題レポートを書き貯めていくわけですが、その際に新聞記事を利用することも多いと思います。その時に問われるのはみんなの視点≠ナす。

単純に「沖縄のことが載っている記事を切り抜いて内容をまとめる」だけでは小学生の課題です。みなさんは後わずか3年で選挙権を持つ、すなわち国家の主権を行使する者になるのです。

自分を社会にどうあわせるのか≠ニいう課題以上に、自分たちで社会の矛盾をどう解決するのか≠ェ問われます。

例えば沖縄と広島の二つを並べたとき、「過去の悲惨な戦争」「日本人の加害と被害」という連想をすることがあります。
しかし、思い込みを一旦捨てて物事をしっかり見つめると、もっと違ったことに気付きます。

   「沖縄のヤギ
   (N910a020511e10 ヒージャー汁)
   「広島の君が代
(N318a020511m30 君が代不起立 教職員14人処分 入学式で広島県教委 手順書配り管理徹底)
   「京都の茶髪
   (N313a020511m30 茶髪の生徒「隔離」授業 京都市の市立中「ルールを教えるため」)。

三つとも2002年5月11日の朝日新聞の記事です。

中央の官僚が何の痛みや共感もなく沖縄固有の文化≠踏みにじる。

広島では教育委員会が入学・卒業式で君が代斉唱≠オなかった教師を処分する。

そして、京都ではルールを教えるため≠ノ茶髪の生徒を隔離する。

三つの記事をつなぐのは憲法にも記された「個人と権力」とのかかわりです。そして「自分たちは何を守ろうとするのか?」「それをそうすべきだと決めるのは誰なのか?」という自己決定権≠フ課題です。

沖縄を学ぶということは、「沖縄だけのこと」を学ぶことではありません。過去であれ現在であれ沖縄は理不尽=強者の論理≠押し付けられてきました。

沖縄から学べる大きなことの一つは、日本の中のマイノリティの痛み≠ニ、それを許してきたマジョリティの無神経さ≠ゥもしれません。

つづく
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茶髪・ピアスを考えるシリーズ

第1回  水泳と茶髪とピアス

2002年度 12枚目 2002/05/01

昨日の遠足の道中、10組の人がこんなことを言ってました。「1組はいいなあ、茶髪認められてて」。で、僕はちゃんと言いました。「1組でも、認められてへんで」と。

「あの子は頑張ってるけど、茶髪だからだめ」「あの子は茶髪だけど、頑張ってるからまあよい」

そのいずれにせよ、僕はそうした判断=評価の仕方はつまらないし、嫌だなと思うのです。

本当は何が問題で、何を問題にすべきなのかをちゃんと考える。

明後日は「憲法記念日」でもあります。そこでこの手紙でも、「禁煙キャンペーン」と平行して、「茶髪・ピアスシリーズ」を企画し、考える材料を提供してみようと思います。

手始めとしてホットな新聞記事(昨日の朝日新聞夕刊)を一つ紹介します。

朝日新聞2002/04/30夕刊 8面
コラム 「窓」  論説委員 西村欣也  茶髪とピアス
自分で髪を茶色に染めることは、恐らくしない。耳に穴をあけてピアスをすることは、一生断じてない。
しかし、ある種の権力を使って、若者の茶髪・ピアスを禁じるというのは、まったく別の問題だ。


日本水泳連盟は選手の茶髪、ピアスに対して委員長会議で嫌悪感をあらわにした。

「禁止は厳しすぎるが、教育的立場から指導方針として示せれば……」という結論に達したという。「スポーツは(教育)の最後のとりでという意識がある」「ピアスをしなければ泳げないというのなら、泳がなくていい」
こんな意見が大勢を占めた。

相変わらずの体質、というしかない。2000年、千葉すず選手が不透明な選考で、シドニー五輪からもれた。


その時、古橋広之進会長は「水泳は個人競技ではなく団体競技」と発言した。

「お上の言うことを聞かないものは排除する」という感覚が世間の反発を買った。今回の結論も、その延長線上にあるようだ。


個性を生かすのではなく、組織の論理で型にはめる。それでは、世界と戦えるような突出した選手は出てこない。

イチロー選手やサッカーの中田英寿選手が一流なのは、ある意味で組織からはみ出した存在であるからだ。

ソルトレーク冬季五輪の2人のメダリスト、清水宏保選手は茶髪、里谷多英選手はオレンジ色に近い金髪だった。

つづく
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