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考えるヒントのお蔵 明日の教育の棚 3 「 制服とピアス 」へもどうぞ |
来週月曜日に出発する沖縄修学旅行を前にして、昨日は事前学習の一つとして藤木勇人さん演ずる「一人ゆんたく芝居」を楽しみました。そのユーモラスな表現の裏にある沖縄の人々の“おおらかさとしたたかさ”、そして人に“声をかけ、守るべきものを知ること”の大切さを学びました。 藤木さんが芝居の幕間、わざと舞台の上で着替えをしたことの意味が理解できたでしょうか。『日本人』は単一民族などではなくいろんな人種が混ざっていてるということ=多様性を尊重すべきであるということを自分の体毛が濃いことで示して見せてくれたわけです。 さて、その沖縄旅行に向けてこれまで何度も注意されてきたことの一つが「遅刻をしない」で、もう一つは「風紀違反は許さない」「窃盗・飲酒・喫煙などがあった場合は旅行途中でも沖縄まで親に引取りに来てもらう」です。そして沖縄ホテルには、あの文化祭の時と同じ「黒染めスプレー」や「除光液」が郵送されます。 自然の美と人の優しさ、そして人権・平和を学ぶ沖縄の地で、人格を無視された屈辱的な扱いを2年1組の誰一人もが受けないよう、今日多くの先生方が事のほか気にかけて下さる1組だけ特別に、生活指導係主任の坂本先生による「服装や身だしなみに関するチェック」をお願いしました。 坂本先生から指摘されたことを真摯に受けとめ、自分にとって、あるいはこの学校において“何が問題なのかを改めて考え学ぶ機会”にしてくれることを心から願ってやみません。 これを機会に、この手紙での「茶髪ピアスを考えるシリーズ」のまとめをしておきたと思います。 まず、二週間ほど前の朝日新聞に載っていた次の記事の紹介を読んでください。
同じ問題を11月22日の京都新聞WEB NEWSでは「▽茶髪の帰宅指導は、多様な個性をもつ生徒を一律に規制し、権利を侵害する▽オートバイの免許取得禁止は、法律が16歳以上の国民に免許取得の権利を保障しており、廃止されるべき」などと報じています。 さて、ここで二つの権利が出てきました。個人の権利と多くの生徒の権利です。この二つはあたかも対立するものであるかのように見えますが、先週の朝日新聞の『天声人語』の内容を重ねて見るとちゃんと整理できる問題であることに気付くでしょう。
学校では何かと言うとすぐに「事の善悪」を問題にしがちですが、常識の嘘を見破る分析力と権威主義に陥らない判断力を身につけるためには、まず「事の本質」を問題にする意識を養うことが大切でしょう。 今回の「服装や化粧の規則」に関して言うならば、「制服とは何か」「校則とは何か」という問題とともに「化粧とは何か」を問うことが求められます。そして、それらが誰のため・誰の利益を守るためにあるのかを問うことも必要です。 それらすべてを省略して「学校の規則だから生徒は守るのが当たり前」としてしまったのでは思考停止を強制していることにしかならず、「平和な民主国家の主権者」に成長することとまったく相反する行為に他なりません。 それはまた、生徒にとっての不幸であるばかりではなく教師にとっての不幸でもあるのです。 2002年11月26日配信の『よみうり教育メールvol.540』には、トイレ掃除をめぐって悪くなった生徒との関係をどう修復したらよいか悩む青森県の25歳の女性教師の相談に対し、「つくば子どもと教育相談センター」代表の志賀伸三郎さんは次のような回答をしています。
さて、ここでも一度「茶髪・ピアス」にもどってみたいと思います。「化粧とは何か?」です。 このシリーズで、これまでに触れてきたことと重なりますが、「化粧の力」を次の三つに整理して考えてみましょう。それは@惹きつける力、A変化させる力、B守る力です。 @ 惹きつける力 今年もキラキラ入りの口紅がはやっていますが、なぜ唇を強調するのか。その一つの仮説として「性的成熟のサイン説」があります。人間だけが血色のよい唇を持っているのは二足歩行することにより目立たなくなった「女性の外性器の代用」だというのです。唇を真っ赤に塗ることで性的に成熟したことをオスに知らせてOKサインを出しているというのです。 一方、マスカラやアイシャドーで目を大きく見せる行為の仮説は「愛情誘引説」。幼児の顔は大人より丸顔で小さく、その分目玉の占める面積の比率が大きい。多くの動物は、そうした大きな目玉を見て「守って可愛がってやりたい」と感ずるのだそうです。 化粧は、特定のパターンを強調することによって異性・同性を問わず相手を惹きつける力を持っているということでしょうか。このことを大きく捕えて、化粧をしている中・高校生を「色気づきやがって」となじる大人は多いようです。 しかし学校という教育の場=子供の成長を支える場では、次の二つの「力」をより重視すべきだと思います。 A 変化させる力 青虫がさなぎを経て美しい蝶に変身していくように、人間もその内面の変化に応じてその外見を変化させていきます。そしてそれ以上に、外見を意識的に変化させることにより内面の変化を促そうとさえします。 小さな子供がお母さんの化粧道具をこっそり使って大人になった気分を味わうのはよくあることです。思春期を迎えて実年齢以上の自分を化粧によって作り上げたいと願う少女がいる一方、年を重ねて実年齢以下の若々しさを取り戻そうとする成人女性もします。 こうした変身は単なる“外見だけの見かけみせかけ・子供だましのこけおどし”ではなく、精神にも深く関わっています。 最近、全国の老人ホームやデイケアセンターなどで「おばあちゃんの化粧教室」がひそかなブームになりつつあるようです。ボケが進んで生気もなくなりかけていた老人が、化粧をすることで生活の張りを取り戻し、対人関係も活性化するというのです。 さらに、この前も話しましたが、不登校の長いトンネルを抜け出そうとした少女が茶髪・ピアスで登校してきたように、これまでの自分と決別する=これまで自分を縛っていた規範を破壊して新たな自分を創造するために「化粧の力」を借りることは大いに有効なのです。 B 守る力 守るといった場合、二つの要素が考えられます。一つは外から入り込んでくるものから自分の内部を守ること。もう一つは自分の表面の傷や衰えはもちろんのこと、内面の弱さ、傷つきやすさ、不安定さ、自信のなさが他人の目に触れないように守ること。 一つ目の化粧は太古から呪術的な化粧として世界中の民族で発達してきました。魔物や邪気が体に入り込まないよう口や目や鼻など体に開いている「穴」の周りや、手先や指などいろいろなものに触れる「先端」に色を塗ったり、刺青をしてきました。 二つ目の化粧は、表面については誰もがすぐに想像が付き、理解もされやすいのですが、内面に関しては“隠す”ことがあたかも悪いことであるかのように言われたり、さらけ出すことが“勇気ある行為”であるかのように思われることもあり、なかなか理解されません。 自分のイメージと違う弱々しくて頼りない自分、誰にも知られたくない醜さを抱えた自分、不安定で落ち込みがちでそのくせイライラし続けている自分。自分で認めたくない自分を心の中に抱えているとき、そんな自分を外に出さない=外から見られないバリアとして化粧の力を借りようとすることもあります。 “素”のままではとっても人前に出ることなどできない自分を、自分が求める元気そうな、つややかな、張りのある、魅力的な自分に装うことで、何とか心のバランスを保って人と関わろうとする。 それを誤魔化しだとかまやかしだとか言うことは、その人の抱える辛さを理解できない鈍感さ、想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう。 溺れてあがく人の姿をみっともなくてカッコ悪いと言う人はいないでしょう。 しかし哀しいことに、そうした化粧の力を借りながら何とか成長しようとしている少年少女を「規則の枠に入らない不良品」のように扱う学校も世間には数多くあるのです。 「2年1組41人。誰欠けることなく全員で、楽しい修学旅行の思い出を作りたい。」 そのために今できることは、一緒にいても大丈夫だと安心できる「空気」をつくること。 そのために「声」を掛け合うこと。そして補い合うこと。 そのために「想像力」を働かせること。 樽の中には“腐ったリンゴ”など一個もありません。あるのは“未熟なリンゴ”だけなのです。 |
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前回、茶髪のために隔離授業≠させられた京都市の中学生の事件≠ノかかわる中・高校生と母親の投書(朝日新聞の『声』)を紹介しました。今回は、高校講師の先生の少し違った視点の投書を紹介します。
この投書をした森谷さんの学校で茶髪が公認≠ウれているのは触れられていません。しかし、「茶髪、ミニスカートの生徒も」とあえて取り立てている所から、茶髪やミニが自然な存在と認められているわけではないようです。 その上で、茶髪そのものに対する是非を論ずるのではなく、大切にすべきだと考えるもの=親子で一緒に食事することを提案しているところに、この投書のユニークさがあります。 私たちは、自分のモノサシではなく、そこに用意されているモノサシ≠ナ人の行動や人格を計りがちです。学校で茶髪やピアスが禁止されていると、それを守っているかどうかで、その人の評価が決まるかのように錯覚します。 そして、そのモノサシは、時には通知票の5段階になったり、模擬試験の偏差値になったりします。 独り善がりなモノサシ≠ヘ、多くの人に受け入れれられず疎まれるでしょう。同時に、特定の社会の中でしか意味をなさないモノサシ≠、絶対的なもののように思い込んでしまう事は、恐ろしく危険なことです。 「髪の毛が何色かというモノサシ」で何をはかっているのか。もし、それがルール=公共の秩序を守る正義感≠竍公共心≠はかるモノサシだというならば、まず「髪の毛の色によって、反社会的・反道徳的であるかどうかが決まるのか」どうかを問題にすべきです。 それなくして、そのモノサシをあてはめようとするのは、単にダメと言われたことをしない従順さをはかっている≠ニいわれても仕方ないでしょう。 子も親も教師も、いったい何を見ているのか。姿・形≠ノ現われたものは何を意味し、どう評価できるのか。私たちは何を支え、どう育てていこうとしているのか。 子どもも大人も、たいていの人は人にツラレやすくクジケやすいものでしょう。だからこそ、自分が何を大切にしようとしている人なのかを時々点検する機会が必要です。そういう意味では服装点検≠竍風紀チェック≠煦モ味があるといえるでしょう。 |
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つづく | |
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今年(2002年)の5月11日に次のような記事が朝日新聞に載りました。 (同日付けの京都新聞でも報じられています)
これに対し朝日新聞の投書欄『声』では6月12日までに、5人の意見が掲載されました。今日は、その内の三人分を紹介します。女子中学生・男子高校生・高校生の母、三者それぞれの思いが身にしみます。
茶髪≠ヘ、学校とは「生徒が何をどう学んでいく=教師や親が何をどう育てる場なのか」を問いかけています。 |
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つづく | ||||
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今日は一学期最初の服装点検≠フ最終日でした。三日間ともチェックされた人は「生徒部へのお呼び出し」ということのようですが、昨日も終礼で言ったように、みんなのとるべき道は、基本的に次の二つに一つです。 今あるルールを「是として守る」か、「非として闘う」かです。 もちろん、上手にごまかしながらのらりくらりと逃げ回ったり、その場しのぎでやり過ごすという選択肢もあるでしょう。 特に、千年の長きに渡って戦乱や権力闘争をかいくぐってきた京都の町の文化の中では、表立っては波風立つような争いごとはせず、それでいてしたたかに自分の価値を守るという芸当≠ェ尊重されてきました。(それが得意なお母さんも多いのかも) 卒業後、社会の荒波を乗り切って生きていくには、学校という閉鎖的で特殊な世界の中だけでしか通用しないルール≠ノ素直に適応するのと同じぐらい、そうした伝統に裏打ちされた処世術、柔軟性や生活力を身につけていくことは、大切なことかもしれません。 でもね、僕はみんなにもちゃんとした自尊心≠持った生活をしてもらいたいのです。 つまり、もし不条理や矛盾だと思えるものがあるならば、「理由もわからずに押し付けられたものを、理由もわからずに受け入れていくのが、生き物のさだめだ」と嘆いてあきらめるのでもなく、「刻苦をいとう怠惰」から「人との交わりを絶って」しまうのでもなく、問題とちゃんと向き合う力を育ててほしいのです。 なぜなら、ここはどこの学校でもなく「京都女子高校」だからです。京女の先生がめざしている教育は1980年の職員会議で決められた次の「教育目標」にのっとっているはずだからです。 (「はじめに」は教育目標の前文。文中の「われわれ」とは京女の先生のことです。)
「教育目標」の基礎となる日本国憲法の前文にはこうあります。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」 教育基本法の第1条 教育の目的にはこうあります。 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」 学校教育法の第42条 教育の目標の第3項にはこうあります。 「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」 生徒にルールを守れという限り、教師もルール(憲法や法律)を守るべきでしょう。そして、たとえその会議に参加していなくとも職員会議で決まった=自分たちで決めた目標を最大限追求すべきでしょう。 ご主人様にシッポを振る犬でもなく、勝手気ままに振舞う猫でもなく、ましてや犬に吠え立てられながら群れをなしてぞろぞろ歩く羊でもない。夢や理想を胸に抱き、自分の口で仲間と語りあい、ちゃんと自分の二本の足で立った人に、僕もなりたいし、みんなにもなってほしいと願っているのです。 今回の締めくくりに、以前紹介した保護者アンケートの集計を再度掲載しておきます。
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つづく | |
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前回、1899年に沖縄で発布された入れ墨禁止令のことを紹介しましたが、そもそも沖縄の娘さんたちは、なぜ入れ墨をしていたのか。 ポ−ラ文化研究所から発刊されている研究誌「化粧文化No.28特集 沖縄の美」(1993年)に、「南島の入墨習俗…美としての針突」という論文が載っているので、その一部を紹介します。 沖縄でのアンケート調査による「入れ墨の理由」は地域によって差が出たそうです。 沖縄本島では「針突(ハジチ=入れ墨)をしないと大和に連れて行かれる」が42%を占めて最も多く、宮古島地方では「針突きをしないと後生(あの世)に行けない」が37%で第一位。 それ以外の理由としては「厄(やく)が払われる」「成女(大人の女)になったしるし」「きれくて自慢したかった」「慣習だから」「遊びで」などだった。 昔から、入れ墨に限らず「化粧」や「装飾」には呪術(宗教)的な意味合いがあることは知られていますが、それをあまりに誇大視することは、歴史や文化を見誤りかねません。 人々は台風や水不足などの自然災害を乗り越え、支配者や侵略者の横暴に耐えつつ、つつましくもたくましく生きてきました。 そうした暮らしの中のささやかな楽しみ、気晴らし、慰めの手段として、化粧や装飾を利用してきたのも歴史的事実なのです。 化粧は「晴れの日」の装いとしての役割もちろんありました。 しかし、小さな子どもが野の花を摘んで染料を作り、お化粧ごっこをして遊んだ様に、少しでも明るく暮らせるように体を飾ってきた生活の歴史がありました。 だからこそ、入れ墨禁止令は徹底せず、政府の厳しい取締りにもかかわらず風習はひそかに引き継がれたのです。 化粧や装飾のもう一つの役割に、自分を目立たせ異性をひきつけるという重要な役割があります。 多くの動物の場合、メスは外敵に襲われにくいように地味な姿をしていますが、オスはメスに選んでもらうために、特に繁殖期になるとハデな姿や目立つ行動(ディスプレイ)をしています。 人間の文明社会≠ナは、男は生活を支えるために地味な姿をし、女は着飾って男を誘惑してきたと言う人もいますが、様々な社会の制約の中で、互いが精一杯求め合ってきたというのが本当のところではないでしょうか。 男女を問わず誰の心の底にも「誰とも違う自分を、誰かに認めてもらいたい」と願う気持ちがあるはずです。 それは生と性の自然な欲求≠ナあり、その自然な表現方法≠フ一つが化粧や装飾といえるでしょう。 近代文明の中では、ノーメイクに洗いざらしのシャツも、厚化粧に着飾ったブランド品も、自分らしさの演出≠セといえます。 そのどちらを選ぶかは趣味の問題なのに、それを善悪や高低の問題に置き換えようとするのは、そこに別の意図あるからです。 それを見極める目を養わなければ一人前の社会人≠ノはなれません。 |
つづく |
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聞くところによれば、風紀委員会の役員さんたちと担当の先生方との話し合いの場で、生徒から次のような意見が出たそうです。
また、この明治32年は「北海道旧土人保護法」という名の「アイヌ文化抹殺法」制定の年です。「アイヌ民族の『明治』」Http://diamond-dust.com/ainu/history-6.html)では、そのことが次のように紹介されています。
国家権力は、「国家の秩序を維持」し、「野蛮で退廃的な文化を改め」、「遅れた人々を教育し保護する」ためと称して、固有の文化や伝統を破壊しつつ、日本の中の少数民族とアジアの国々を支配していったのです。 |
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つづく | ||
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今日5月15日は「沖縄祖国復帰の日」ということで、今日の朝終礼では修学旅行委員さんが発行する新聞「海人(うみんちゅう)新聞」の記念すべき第1、2号が配布されました。 |
つづく |
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昨日の遠足の道中、10組の人がこんなことを言ってました。「1組はいいなあ、茶髪認められてて」。で、僕はちゃんと言いました。「1組でも、認められてへんで」と。
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つづく | |
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