思春期の子ども達の性的な関係作りは「非行」なのでしょうか? |
一昔前は「不純異性交友」、最近では「性の逸脱行為」などと呼ばれる性的な関係作りを、どうとらえるのかは、様々な意見に別れる所でしょう。未成年者の「性行為」については、次のような法律や条例、条約などで規制が掛けられています。 ※ 不純=わいせつが法的にどのように規定されているのかは、大阪府 青少年健全育成条例 施行規則の第4条 有害な図書類の指定の基準や第5条 有害な図書類とする書籍等の内容からうかがえます。私たちはそろそろ「性行為」と呼ばれるものを、「性交」にしか置き換えられない発想を改めるべきではないでしょうか。私たちは無意識の内に、文明開化とともに輸入された当時の「欧米のキリスト教的性規範」や、その後の「軍国・皇国主義」に基づく道徳を、私たちの社会の「伝統的」な性道徳だと錯覚して来たとも言えます。 江戸期以前は、全国各地の農村や漁村では、若者宿などの「自治組織」が性教育も担い、「祭り」を中心におおらかな性生活が営まれていました。「未成年者の性行為」が日本の歴史の中で制限されていたこの100年の方が特別な時代なのかもしれません。 もちろん「昔はよかった」などという、寝ぼけた話をしようと言うのではありません。そこには様々な伝統習俗の中で虐げられ、性暴力の犠牲になった女性の歴史があります。 ただ、私たちは「時代とともに常識は変化する」ことと、「時代を超えて人をいとおしむ表現は存在する」ということを忘れるべきではないでしょう。 「地域」や若者の「自治」が失われ、家庭も学校も揺れ動いている現在。性行為を「人間同士の対等なパートナーシップを作る大切な要件の一つとして考える事」と、「子供を産み育てる事や感染症に対して責任がとれないような無責任で危険な性行為をきちんと自己管理すべきである事」を再認識する機会と場が、男女を問わず大人も子どもも必要でしょう。 子どもたちの自然な性的活動≠「罰すべき生活指導の対象」とはしない。また無軌道な性衝動≠野放しにしない。性の課題≠自立と共生の課題として押さえ、「性の自己決定権」という人権の課題≠ニしてとらえる。そういう視点をもって子どもと向き合える学校こそが、子どもを大切にしている学校なのではないでしょうか。 大人は自分たちの規範にすらなっていない儒教的、あるいは保守的なキリスト教的倫理・道徳観を振りかざすのではなく、科学(医学)的な認識と深い人権意識を子ども達と共に育んでいくことが求められています。 そして更に、より良い人間関係(パートナーシップ)の基礎となるコミュニケーション能力や自分の身を守るための判断力や表現力を培うことが、「社会人としての性教育」の重要な課題として意識されるべきでしょう。 2004年の秋から東京都で子どもの性行為を条例で規制しようとする動きが報じられ、それに対する様々ないアクションも起きています。こうした問題を考えるポイントは、子供同士の人としての関係性を豊かなものに育てていくには、まず大人同士がよりよい人としての関係性を示すと共に、子どもと大人の関係性を築いていくことが不可欠だということです。 子どもから見れば親であれ教師であれ近所のオッサンであれ、大人は強者です。大人が「普通」に接しているつもりでも子どもは威圧や圧迫を感じます。その一方で子どもは大人が弱者である自分を守ってくれることを期待し、信頼を寄せ、依存します。それを忘れることなく、大人も子どもも一人の人間として対応平等な価値をもつ存在として人間関係を築いていくことが、大人に求められています。 |
2005年1月5日 一部更新 |
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