雛人形の歴史CarnageFan[カルネージハート] >雛人形の歴史
|
|
雛祭りは、上巳の節供、桃の節供とも言われ、平安時代曲水の宴から発展したものといわれています。中国では水辺で不浄を清める行事で秦の時代から始まり、記述に残る最古は353年3月3日とあります。日本に伝わってきた曲水の宴は宮中の催しとして485年3月に行われたと記されています。曲水の宴は、川辺で酒が入った杯を水に浮かべて流し、歌を詠むというもので、穢れを水に流して清める意味で行われていました。その行事が意味合いは同じく、穢れを移した人の形をしたものを水に流すことに変化していったのです。 ひとかた千年以上昔には、人形は『ひとかた』とか『かたしろ』と呼んでいました。そのころの人形『ひとかた(かたしろ)』は、草や木の枝、紙などで、人の形を真似て作られていたものだったのです。この人の形を真似た木や草を、まじないや信仰の道具に使っていました。人形『ひとかた』で自分の体を撫でて、災いや身のけがれなどを人形に移し、川や海に流すのです。つまり、お祓いの道具のひとつとして使われていたのです。身代わりになってもらうというので『かたしろ(形代)』とも呼ばれていました。今でも鳥取県などで、女の子が安らかで無事に育つようにと、ひな祭りが終わった後に、紙で作られた雛を川に流して、お祈りをする流し雛の風習が見られます。 『あまがつ』と『ほうこ』雛人形は『あまがつ』と『ほうこ』を原型として生まれたとも、変化したともいわれています。『あまがつ』は丸い竹を一本、横にして人間の両手に似せ、竹を縦に2本束にして胴体にしています。その上に白い絹で丸く作った頭をのせています。衣装も着せ、目、鼻、口、髪の毛は描いています。ずいぶんとシンプルなものだったこの『あまがつ』は平安時代の宮廷貴族の家庭で使われていたのです。『ほうこ』は、今で言うぬいぐるみ人形のことです。頭には絹糸で作った髪の毛をつけ、金紙で束ねています。この人形を『ほうこ』あるいは『はうこ』と呼ぶのも、赤ちゃんがはいはいするポーズにみえるところからきているのかもしれません。ほうこは庶民の間でお祓いのための人形としてつかわれていたのです。これらひひな遊びやかたしろ信仰、あまがつ、ほうこが、上巳の節供と結びついて日本独特の人形祭りが生まれたのが雛人形であり、ひな祭りなのです。 室町時代の雛人形およそ500年前の室町時代には、公家の女の子の遊びとしてひひな遊びが盛んになりました。曲水の宴から変化した、川に流していまうお雛様の他に、部屋の中で飾って鑑賞するためのお雛様が作られ始めました。部屋の中へ飾る雛人形は、人々が心惹かれて、眺めて楽しめる、優れた工芸品でとしての品質をも求められました。人形つくりの技術の優秀さが求められ、さらにかわいらしさ、美しさが加わって、雛人形の大切な条件となりました。ここで、世界に先駆けて鑑賞のための人形が誕生したのです。この頃は文献として残っているものがないけれども、おそらく立ち雛のような形の雛人形が使われていたのだと思われます。 江戸時代の雛人形江戸時代は徳川家康から始まり300年続いた、天下泰平の時代です。町人文化が栄え、雛祭りの行事が一般の人々の間で盛んになり、雛人形は目覚しく発達しました。この時代の雛人形を見ると、人々がいかに平安王朝の文化にあこがれていたかがわかります。 雛市 - 雛祭りが盛んになるにつれて、雛人形やその道具類を販売する雛市が登場しました。作品として芸術性の高い人形が沢山生まれます。とうそに胡粉とにかわで頭や手足を仕上げ、きらびやかな金襴などの織物が衣装に使われ始めました。現在の雛人形の技術は、この時代の技法が多く取り入れられています。 立ち雛 - 雛人形の基本はほうこ、あまがつです。江戸初期の雛人形は、これらの形に習ってとうそを固めて、もしくは木を彫って出来た頭に、薄っぺらな体に紙製の衣装を着せた立ち姿の人形があり、その容姿から立ち雛といいました。男雛は袖を左右に張り、女雛は円筒形の熨斗形をしています。やがて、織物の衣装を着るようになり、体も厚みがまして、座った姿勢の雛人形に変化していったのです。 寛永ひな - 座った形の雛の中では、一番古いものといわれています。男雛、女雛ともに同じ小袖を着せ付け、袖を左右に広げています。男雛の髪は冠と一緒に墨で塗ってあります。女雛の頭には天冠などはまだありません。面長の顔に目は二重で、写実的な表情をしています。人形の形は、座ってはいても紙製の衣装をつけた立ち雛を連想させます。立ち雛から座り雛に変わっていく途中の雛人形です。 享保雛 - 享保年間(1716~1736)ころに流行した大型の雛人形です。豪華な金襴や錦で出来た衣装を身に着け、男雛は腰に太刀、手にはしゃくを持ち、女雛は五衣(いつぎぬ)、唐衣(からぎぬ)と呼ばれる着物を着て、ひおうぎを持っています。享保雛はあまりにも豪華すぎたため、当時の幕府に製作禁止令がしばしばだされたほどです。逆にその反動で芥子雛という高さが3cmくらいしかない、ちいさな雛人形が上流階級の間で流行しました。 次郎左衛門雛 - 菱屋岡田次郎左衛門という京都の人形師が作ったといわれる代表的な雛人形で享保雛に続いて登場しました。大変珍しいことに製作者の名前が、そのまま雛人形の名前になっています。丸顔に引き目・鉤鼻と平安王朝時代の美女の典型とも思われる、気品に満ちた表情です。この気品に満ちた表情が、江戸の人々の美意識を満足させて、その後約30年の間、親しまれ続けました。 有職雛 - 江戸の次郎左衛門雛が親しまれていた同じ頃に、京都では有職故実に基づいてつくられた雛人形が有職雛です。有職故実とは、朝廷や武家の風俗や習慣を研究する学問のことです。この有職雛は江戸にも伝えられ、次郎左衛門雛のあとに作られた古今雛へと変化していきました。 古今雛 - 人間にとても近い写実的な表情をしていて、精巧に作られた雛人形です。眼にはガラス玉や水晶などをはめこみ、金糸で刺繍した金襴、錦、綸子などで作った豪華な衣装を身に着けていました。また、古今雛という呼び名がとても優雅に聞こえることからも、江戸っ子の間で人気になりました。以降、この古今雛の形が現在にまで受け継がれました。 雛人形の歴史に関する情報
カルネージハート公式サイトでは有りません。大会等のイベントも行ないません。 管理者 9tails |