備前国岡山(岡山県岡山市)出身。岡山藩士の中村秀人、静子の長女として生まれる。旧姓は中村。母方祖父は岡山藩医学館教授を務めた石坂竪壮(10-1-6-5)。石坂竪壮の婿養子は軍医総監を務めた石坂惟寛(10-1-6-5)で、惟寛の婿養子になったのが陸軍中将の石坂善次郎(10-1-6-5)。
1880(M13)父と死別後、母の手で養育された。1883 岡山キリスト教会創立者の金森通倫(15-1-13)から受洗。山陽女学校を経て、1889 大阪梅花女学校卒業。同年新聞記者の竹越與三郎(同墓)と結婚。
翌年夫が徳富蘇峰(6-1-8-13)の民友社に招かれ『国民新聞』の創刊に関わることになったため、夫婦で上京した。竹代も『国民新聞』に寄稿することとなり、これが日本初の女性新聞記者が誕生となった。
1891 東京婦人矯風会委員となり、「一夫一婦の建白書」とりまとめに尽力した。1893 日本基督教婦人矯風会が設立されると委員として参加。矢嶋楫子(3-1-1-20)らと廃娼運動、禁酒禁煙運動などを展開。このころ『婦人立志篇』『ウェスト女史遺訓』などを刊行した。
1895 二男出生とともに文筆活動から遠ざかり、夫が民友社を去るに及んでキリスト教活動も停止した。1909頃から禅宗に傾倒し、東京大久保の金龍寺などで参禅、仏道の印可と嗣法を許される。のち天台宗の修行に励み、浅草寺の大僧正栄海から大阿闍梨の資格をうけた。享年75歳。
<女性人名事典> <近代日本の先駆者> <人事興信録>
*墓石は和型「竹越家之墓」、裏面「昭和二十八年三月建之」。右側に墓誌があり、竹越竹代から刻みが始まる。
*與三郎と竹代の間には4男1女。長男の竹越虎之助(1893-1977.10.17:同墓)はロックフェラー研究所を経て、星製薬製薬部長、藤田製薬、日本糊料取締役、日本CMC社長を務めた実業家。虎之助の妻は梅子(三井物産取締役の林徳太郎の長女:H9.1.24歿:同墓)。二男の竹越熊三郎(1895-1997.1.24:同墓)は三菱鉱業取締役、三菱金属鉱業常務、千歳鉱山社長を務めた実業家。熊三郎の妻は明子(外交官の山中千之の長女:1903.2-1972.9.29:同墓)。三男の鵠四郎は伊藤ふぢ子と結婚し婿養子に入り伊藤鵠四郎となる。四男は竹越龍五郎。長女の北見は三菱重工業社長の元良信太郎に嫁いだ。
*同墓に眠る竹越起一(1924-2017.11.10)は竹越與三郎の孫、竹越熊三郎・明子の長男。母の明子(1903.2-1972.9.29)は日本公使館に勤めた山中千之の長女であるため、母方祖父は山中千之で、弟の晋次は山中千之の養子となった。また山中千之の母のサタは子爵の珍田捨巳の長女であるため、曾孫にあたる。起一は東京工科大学卒業後、古河アルミニウム工業(株)技術部長や徳富蘇峰記念塩崎財団3代目理事長を歴任した。
第407回 日本初女性記者 キリスト教から仏門 大阿闍梨 竹越竹代 竹越與三郎 お墓ツアー
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