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いしざか けんそう

石坂堅壮

いしざか けんそう

1814(文化11)〜 1899.10.26(明治32)

江戸後期・明治期の医学者(岡山藩医学館教授)

埋葬場所: 10区 1種 6側

 播州三日月藩の船曳五七郎の二男として生れる。代々岡山侯侍医。名は堅操、諱は秋朗、字を天津、空洞と号し空山人、鉄琴、無物翁なとど称した。
 石坂桑亀につき医学を学びのちその養子となった。さらに、京都に遊学し小森桃塢およびその塾頭山崎玄東について医学を学び産科を舟曳紋吉につき修めた。 帰国後、倉敷において開業、のち岡山藩藩主の侍医として勤め1870(M3)岡山県医学校教授に就任した。 同校を生徒の騒動に巻きこまれて免職となり以後開業医として治療にあたり、'85東京に出るまで弟子を育成し医学および博物学を教授した。 同10年には我が国において初めて肝吸虫を発見して翌年の『医学雑誌』に発表した。安政年間既に電気器を工夫して医療に用いるなどした。
 書画詩文に巧であり、著書に『博物新編拾遺紀聞』『理学小補』『児島志』『博物新人篇拾遺』『理学少補』などがある。号名である石坂空洞としても名を馳せている。

<日本洋学人名事典>
<「東京掃苔録」藤波和子>
<MATSU様より情報提供>


*墓所は柵で覆われており墓所内に入ることができない。和型の墓石が二基並び左側の古い方が石坂堅壮と惟寛が眠る墓石である。

*青山墓地より改葬


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