東京出身。父は日本ハリストス正教徒でニコライ堂に奉職した眞鍋理従(同墓)。本人も正教徒であり聖名は父と同じアレクサンドル。
東京高等学校尋常科の頃より音楽を学ぶ。先輩に入野義朗(15-1-17)や朝比奈隆がおり影響を受ける。'37(S12)小野アンナ(6-1-5-11)らにヴァイオリンを学び、東京大学管弦楽団、青年交響楽団などのオーケストラに参加。
'44 東京高等学校理科甲類卒業。太平洋戦争中に東京工業大学応用物理学科に入り、卒業論文「江戸大火における火線について」を書き、'48 戦後、卒業したが、音楽の道を諦めきれず、東京藝術大学声楽科へ入学。途中で作曲科に転科。'53『管弦楽のための三楽章』で第22回 日本音楽コンクリート作曲部門で入賞。作曲を池内友次郎や伊福部昭らに、指揮を斎藤秀雄(2-1-4-4)や渡邉暁雄に、ファゴットを中田一次に師事。'55 東京藝術大学音楽部作曲科卒業、翌年作曲研究科も修了した。
在学中より、ファゴットあるいはコントラファゴット奏者として、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、NHK交響楽団、近衛交響楽団、藝大管弦楽団などの公演に参加した。また、'54 桐朋学園「子どもの為の音楽教室」や高校、短期大学で講師をつとめる。'56 お茶の水女子大学教育学部で音楽通論やキーボード和声法を担当した。
映画音楽家の吉澤博の紹介で映画音楽の世界へ入り、'56.4.22 日活「愛情」(堀池清監督)の音楽を担当してデビュー。どんなスタイルでも対応できることを売りとしていたこともあり、SF映画、ホラー映画、怪獣映画、社会派からドキュメンタリーまで幅広い作風を生み出した。約200本の映画音楽やテレビドラマ音楽などに曲を付けた。'61 大島渚監督「太陽の墓場」の音楽を担当しブルーリボン映画音楽賞を受賞。代表作は『スーパージャイアンツ』、『青春残酷物語』、『日本の夜と霧』、『ゴジラ対ヘドラ』、『ゴジラ対メガロ』、『太陽の子』、『花と蛇』などがある。選曲した『眞鍋理一郎の世界』はLPとして発売され、後にCD化もした。
'64.7-9 イタリアのトスカーナ県シエナにあるキジアーナ音楽院において、F.ラヴァニーノに師事し、奨学金を受け映画音楽の講座を受講。'70より10数年、ロシア・モスクワ正教会ポドゥヴォーリエ教会聖歌隊の指揮者(レーゲント)をつとめる。'71 日本大学芸術学部映画学科非常勤講師をつとめる。後に音楽学科も兼任した。
'83 『甘露門交響曲 シンフォーニア・アムリータ』で第1回世界仏教音楽コンクールで第二位入賞、'86 次いで第2回でも『火と雨の眞言』で入選した。主な純音楽は『フリュート協奏曲』(芸術祭参加作)、『追憶』(絃楽オーケストラ)などある。
編著に『ギター愛好者の小楽典 : 現代ギター・ハンドブック』(1977)、 翻訳に『セゴビア自伝 : わが青春の日々』(1978)、訳編著に『イタリアの旅 : 古い民謡と地方料理をたずねて』(1988)などがあり、2004.12〜2005.8(H16-17) エッセイ『私の出会った音楽家たち』を執筆。福井美都留の筆名で小説『郷愁消滅顛末記』(1993)、小説『涙のパヴァーヌ みちのくのリュート』(1994)がある。
2001(H13)川崎市市民ミュージアムで特集上映『眞鍋理一郎の映画音楽』が開催された。2013 師匠の伊福部昭生誕百年紀実行委員会の副委員長を務めた。享年90歳。
<音楽家人名事典> <スリーシェルズ 眞鍋理一郎プロフィールなど>
*墓石は洋型「眞鍋家之墓」、裏面が墓誌となっている。テクサ 眞鍋美都留(-1975.2.28)、アレクサンドル 眞鍋理従(-1976.9.18)、アレクサンドル 眞鍋理一郎の三名が刻む。
*父の眞鍋理従はロシア人の宣教師聖ニコライ(カサトキン)が創立した正教神学校で学ぶ。大正期はハルビンの福田商会で日露貿易に従事。帰京後はニコライ堂の境内にある正教神学校の学監やニコライ堂に奉職した。
*母の眞鍋美都留はキリスト教伝道者の福井寧(9-2-19-1)の妹。旧姓は福井。神学校時代に眞鍋理従と出会い、男女別学で交際も厳しい状況の中、駆け落ちのような形で結婚。戦後に二人ともニコライ堂に戻り活躍した。
*眞鍋理一郎の岳父は理研科学映画やホトフィニ(JPF)創設者で日本大学芸術学部長 兼 日本大学学長を務めた渡辺俊平。長男はオーボエ奏者・作曲家で父の劇伴にも演奏家として参加した眞鍋平太郎。
【ニコライ堂】
日本に正教会の教えをもたらしたロシア人の宣教師聖ニコライ(カサトキン)が、東京千代田区神田駿河台に正教会本会をつくった。また正教神学校を創立し正教会を担う者たちの指導者を育成した。なおこの学校からは眞鍋理従の他、長司祭の三井道郎、文学者の小西増太郎、昇曙夢(11-1-9)らを輩出している。
1891 神田駿河台の正教会本会の地に七年かけてニコライ堂(正式名:東京復活大聖堂)が完成。1912 ニコライ没すぐに関東大震災が起こりニコライ堂は大きく破壊されたが、来日経験がありニコライを助けたセルゲイにより修復された。太平洋戦争では被災を免れ無傷であった。
西郷従道(10-1-1-1)の長男の西郷従理(10-1-1-1)はロシアに赴いた際に、現地にて洗礼を受け、聖名アレキセイの正教徒。1884.12.10(M17)腸チフスのため10歳の若さでアメリカで客死した際に、1885.4.24 西郷従理の葬儀をニコライ堂の前身の正教会本会の聖堂にて、ニコライ主教司祷のもと埋葬式が行われた。この埋葬式が、日本で初めて行われた正式な正教会式の埋葬式である。キリスト教伝道者(プロテスタント)の植村正久(1-1-1-8)は、まだキリスト教など信教の自由がそれほど認められていない日本の情勢において、西郷家が愛児の信仰を尊重し、葬儀を正教会式に営んだことの影響は決して小さくなかったと回想している。また中村健之介はこの葬儀を「日本の信教の自由の小さな礎となった」ものと評価した。
なお、著名な正教徒は、ユダヤ人へ命のビザを発行した杉原千畝(聖名はパーウェル:詳しくは大迫辰雄の頁に詳しい)や作曲家の高木東六(聖名:アファナシイ)などがおり、多磨霊園納骨堂の「みたま堂」(1993)設計者である建築家の内井昭蔵もニコライ堂で埋葬式が行われた(2002)。
<日本キリスト教総覧> <「日本ハリストス正教会の教会法的地位設定問題」スハーノワ・ナタリア>
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