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のぼり しょむ

昇 曙夢

のぼり しょむ

1878.7.17(明治11)〜 1958.11.22(昭和33)

明治・大正・昭和期のロシア文学者、
奄美群島返還尽力者

埋葬場所: 11区 1種 7側 3番

 鹿児島県奄美大島の瀬戸内町加計呂麻島芝出身。本名は直隆(なおたか)。
 1895(M28)鹿児島で高屋沖から正教会の教理を聞き受洗。翌年よりニコライ正教神学校に入り、1903 卒業して、同校の講師になる。講師の傍ら、新聞や雑誌にロシア文学に関する評論・エッセイを発表し、それらをまとめた『露西亜文学研究』(1907)は、わが国でほとんど最初のまとまったロシア文学紹介の書となった。'17(T6) 陸軍士官学校教授に就任し、のち早稲田大学講師も務める。
 内田魯庵(12-2-1-1)や二葉亭四迷に次ぐロシア文学者として明治末から大正期にかけて幾多の翻訳を手掛けた。芸術紹介の一連のシリーズ書を出版した他、主な作品に処女翻訳集『白夜集』(1908)に次いで、バリモント『夜の叫び』、ザイツェフ『静かな曙』など。当時最新鋭のロシア文学を収めた『六人集』(1910)は爆発的人気をよび、当時の文学青年に大きな影響を与えた。その後もソログープ『奇の園』、クプリーン『決闘』、ソログープの戯曲『死の勝利』、アルソイバーシェフ『サーニン』など、今世紀初頭の作家を精力的に紹介、彷徨する魂が紡ぎだす民衆世界は武者小路実篤や芥川龍之介をはじめとして日本文学にも多大な影響を与えた。日本の作家に刺激を与える一方、『諸国現代の思潮』『露国及露国民』(1918)などでロシア社会と文学界の状況を伝えました。
 ロシア革命が起こると『露国革命と社会』で実情を報告。'24〜'27「新ロシヤパンフレット」八冊を刊行、同時代のロシア・アヴァンギャルド芸術の息吹を逸早く伝えた。エレンブルグ『トラストD・E』、マヤコフスキー『ミステリア・ブッフ』など新しいソヴィエト文学も紹介していった。内務省などで日本のロシア事情の権威として知られる。'20 ソ連極東地方訪問、'23 ソ連訪問、'28(S3)トルストイ生誕百年祭に招かれてソ連に再訪問し参列した。
 戦後、'46 ニコライ露語学院院長に就任。また『ろしや更紗(さらさ)』『ろしや風土誌』などでロシア民族の風俗や習慣、民族的性格などを考察。'57『ロシア・ソヴィエト文学史』で、日本芸術院賞、読売文学賞を受賞した。
 生まれ故郷の奄美群島は戦後、沖縄と同じく、米軍の施政下におかれる。'53 日本復帰を果たすが、この間、奄美の日本復帰運動に尽力した。'49『大奄美史』を著している。享年80歳。

<コンサイス日本人名事典>
<現代日本朝日人物事典>
<キリスト教人名辞典>
<叶芳和様より情報提供>


【新宿中村屋との関り】
 昇曙夢は新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光 夫妻(共に8-1-5-3)と昭和初期頃に親交し援助を受けていた。愛蔵の母校であった早稲田大学は中村屋から多額の寄付を得ており、黒光はロシア文学に興味を持ち早稲田大学のロシア語教授たちに師事していた。その教授の一人がロシア文学の権威である昇曙夢である。黒光から孫娘であり、インド独立の志士であるラス・ビハリ・ボース(1-1-6-12)の娘の哲との婚姻相手の相談をされたと思われる。後に哲(1-1-6-12)は昇曙夢の甥が樋口浩(1-1-6-12)と結婚することになった。なお黒光はロシア語を話せたことで、ロシアの放浪児ニンツァや盲詩人エロシェンコなどが中村屋に身を寄せるようになった。


【昇曙夢と復帰運動】
 終戦後、1946.2.2(S21)北緯30度以南、行政権分離(二・二宣言、本土渡航禁止)となり、奄美群島はアメリカ軍政下・占領下となった。
 復帰運動は内地から始まった。1950.2.17 宮崎県の奄美出身青年団(徳之島出身)が奄美の各市町村長に対して、「3月1日を期して復帰署名と宣言を開始する」という檄文を発送。同.3.1 青年団員150人が大きな幟(のぼり)を押し立て、宮崎市の目抜き通りで署名活動を開始した。このニュースはたちまち全国に流れ、アメリカにも衝撃を与える。これを機に全国各地で組織化される。同.3.24 東京奄美学生会結成。同.8.24 奄美社会民主党結成、共産党とも連携。国会でも「奄美問題」が議論されるようになった。島では復帰運動が公然化されていき、復帰運動は内外で燃え広がった。
 '51.2.14 奄美大島日本復帰協議会結成。同.5.12 郡島民の復帰署名簿は 99.8% が集まり、この名簿が横浜港に上陸。同.6 全国奄美連合傘下に復帰対策委員会が設置され(現地奄美とは別の組織)復帰運動が本格化していった。同.7.19 「日本復帰の歌」(復帰祈願の歌)が発表される。同.8.1 泉芳朗復帰協議長が復帰祈願断食を行う。
 '52.5.28 全国奄美同胞総決起大会が新橋西口で開かれ、各政党、総評、国鉄、官公労、日教組なども参加し、一大国民運動へ発展した。このように、内地の全国奄美連合は「祖国復帰」を国民各層に呼びかけ、また国際的にも強く訴え、広範な国民運動を盛り上げる大きな役割を果たした。
 同.8 復帰運動の終盤、奄美連合全国代議員大会で運動方針を巡る路線対立で紛糾した。この時に、復帰対策全国委員長であった昇曙夢が鎌倉から体調が悪い中を押して上京。「日本復帰という大目的達成のためには小異を捨てて団結してもらいたい」と訴え、復帰運動の分裂を回避した。
 昇曙夢の「小異を捨て大同に立て」という指導理念の意義は大きく、'53.12.25 奄美群島は日本復帰を達成した。'54.1.27 奄美大島復帰祝賀国民大会が日比谷公会堂で開催される。奄美群島内で島民と共に復帰運動の最前線に立った泉芳朗は「復帰運動の父」と称されているが、東京で復帰運動に参加した人々から昇曙夢は「復帰運動の師父」と称されている。
 奄美群島の日本復帰は、エジプトのナセル大統領をして「奄美の復帰運動を見習え」と言わしめたくらい、平和的に民族独立を成し遂げた。

<経済学者の恩返し〜島々への提言〜「昇曙夢と復帰運動」
叶芳和 南海日日新聞 2023/11/17>


墓所

*正面「昇家之墓」、裏面「昭和十一年三月建之」。墓誌には右から二番目に本名で「ワシリー 昇直隆」と刻む。なお、長男の昇隆一(同墓:1912-1998.12.5)もロシア文学者として活躍した。

木標碑

*2003.11.4(H15) 奄美群島日本復帰50周年を迎える。その一カ月前、2003.10.4 奄美群島日本復帰50周年記念して、百名近くがここの昇曙夢が眠る墓所に集まり、墓参会が催された。そして、復帰50周年の記念と、昇曙夢の生誕日に合わせて、2003.11.22 墓所内に「昇曙夢先生墓前祭」の木標碑が建立された。それから20年経った、復帰70周年を迎えた現在(2023)木標碑はだいぶ傷んでいる。

*2010.2.19 国土交通省国土地理院は鹿児島県の南部に連なる「奄美諸島」の名称を「奄美群島」に統一することに決定したと発表した。これまでは、「奄美諸島」、「奄美群島」の両方が使われていたが、国土地理院と海上保安庁で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」が、同.2.15 統一することを決定した。



第484回 奄美群島の返還尽力者 ロシア文学者 昇曙夢 お墓ツアー


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