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うちだ ろあん

内田魯庵

うちだ ろあん

1868.5.26(慶應4.4.5)〜 1929.6.29(昭和4)

明治・大正期のロシア文学者、小説家、評論家

埋葬場所: 12区 2種 1側 1番

 江戸下谷車坂六軒町(東京都台東区)出身。旧幕臣の子として生まれる。本名は貢(みつぐ)。通称は貢太郎。号は魯庵の他に、不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)。
 立教学校、大学予備門で英語を学ぶがいずれも中退。遠縁の翻訳家の井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけた。1888(M21)から硯友社の勃興に際し、硯友社流の〈遊戯文学〉、矢野竜渓らの〈功利文学〉を批判して、文学に人生と交渉する厳粛な意義を求めた。鋭利な批評眼と風刺性の強い文章で文芸評論家として活躍。『山田美妙大人の小説』 (1888) を『女学雑誌』に発表を皮切りに、『国民新聞』『国民之友』にも寄稿して確固たる地歩を得た。評論『文学一斑』『文学者となる法』などを刊行。
 ロシア文学にも早くから影響を受け、二葉亭四迷と親交を結ぶ。日本で初めてドストエフスキーの「罪と罰」を翻訳し発表した。1898 自身も小説『くれの廿八日』を発表し、小説家としても認められる。1901 短編小説集『社会百面相』も刊行。近松門左衛門や松尾芭蕉の研究を通じて得た書物への愛着から、'01 丸善の顧問になる。この丸善で日本初の企業PR誌「学鐙」の編集にあたった。
 '09 二葉亭四迷が亡くなったことを機に、ロシア文学の翻訳も再開し、トルストイの「復活」や「イワンの馬鹿」などの翻訳をし、日本で初めて紹介した。なお「イワンの馬鹿」(1902)は、内田魯庵が翻訳した時のタイトルは「馬鹿者イワン」であった。他にもアンデルセン、ポー、ディケンズ、ゾラ、デュマらの作品を翻訳した。
 随筆も書くようになり、随筆集『貘の舌』(1921)、『バクダン』(1922)など進歩的立場での文明批評や読書文化普及につながり世に知られた。加えて、'25 刊行の文壇回想録『思ひ出す人々』は回想記の傑作といわれている。享年61歳。

<コンサイス日本人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<ブリタニカ国際大百科事典など>


墓所

*墓石前面「魯庵之墓」、前面左側に「魯庵内田貢」と「妻 敬子」、二人の生没年月日が刻む。裏面には内田魯庵と敬子(1875.12.15-1941.2.5)の長女で14歳で亡くなった百合子、次男で21歳で亡くなった健が刻む。墓所右側に長男で洋画家の内田巌の墓「巌之墓」が建つ。裏面に内田巌の生没年月日が刻む。

*孫(巌の長女)の内田莉莎子(りさこ:1928.6.24-1997.3.22)の名前は、モナリザにちなんで内田魯庵が命名した。莉莎子は早稲田大学を卒業後、ポーランドに留学。外国児童文学の翻訳紹介を行い、『てぶくろ』『おおきなかぶ』などがロングセラー。夫はポーランド文学者の吉上昭三。息子は翻訳家の吉上恭太。なお、孫(巌の二女・莉莎子の妹)の路子はグラフィックデザイナー・絵本作家の堀内誠一に嫁いだ。路子と誠一が絵を担当した共著の児童書もある。路子の娘たち(玄孫)の堀内花子と堀内紅子も児童書の翻訳家。



第494回 ドストエフスキーやトルストイを日本に紹介したロシア文学者
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