本名はアンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ(Anna Dmitrievna Bubnova)。 父親はロシア帝国の官僚のドミートリイ・ブブノフ、母親のアンナ・ニコラーエヴナは名門貴族ブリフ家出身で声楽家。姉のワルワーラは美術家、画家。妹のマリヤはピアニスト。
6歳よりピアノ、10歳よりヴァイオリンを学び、1908〜1913ペテルブルク音楽院で、レオポルド・アウアーに師事。 “フリー・アーティスト”の称号を得る。1917(T6)5月ロシアに留学していた小野俊一と結婚。 翌年、ロシア革命で混乱していた故郷を離れ、28歳で来日。日本で、小野アンナ音楽教室を主宰し、多くの門下生を育てた。 俊一との間に俊太郎を儲ける。音楽の早期教育の必要性を唱えていたこともあり、俊太郎をヴァイオリニストにすべく育てていたが、俊太郎が14歳の時に医師が急性盲腸炎と気づかず、またアンナが誤って患部を温めてしまったため没してしまう不幸にあう。 その二年後、俊一とアンナは協議離婚。アンナは離婚後も日本に留まり、小野アンナ名義で日本のヴァイオリン演奏の進展に寄与し続けた。 俊一は浪子と再婚し子も儲けていたが、自宅にアンナとアンナの姉のワルワーラを住まわせた。
'46武蔵野音楽大学教授として後進を指導するかたわら、請われて桐朋学園の子どものために音楽教室も務めた。 小野アンナ門下からは、諏訪根自子、厳本真理、前橋汀子、潮田益子、浦川宜也、三木鶏郎など数多くのヴァイオリニスト、音楽指導者、作曲家等を輩出した。'58小野俊一が歿す。 これを機に、アンナは姉のワルワーラとともに惜しまれつつソ連に帰国。40年間の日本での生活にピリオードを打った。 '59日本政府から今までの功績を評して、勲4等瑞宝章を賜わる。 帰国後、ジョージア(グルジア)のスフミ音楽院にてヴァイオリン科教授に就任。スフミにて永眠した。
※墓所内に記念碑が建之されたこと、前夫(小野俊一)、息子(小野俊太郎)、母(アンナ・ニコラーエヴナ)の墓石があり眠っていることから、本人の墓石や刻みはないが、歴史を学ぶ一環として独立ページを設けます。
第170回 日本のヴァイオリニストを育てた異国の母 小野アンナ お墓ツアー
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