ロシア帝国・トヴェリ県(カリーニン州)ベルノーヴォ村に領地をもつ地主貴族ブリフ家に生まれる。屋敷のあるベルノボで育ち、後にペテルブルグ(レニングラード)で声楽を勉強した。すばらしい歌唱力を持った音楽家として活動。
ドミートリイ・カピトーノヴィチ・ブブノワと結婚。夫は海軍軍人の家庭で育ち、ジャーナリストをしていたが、後に銀行官吏となった。マリヤ(後にピアニスト:1884生)、ワルワーラ(後に画家:1886生)、アンナ(後にバイオリニスト:1890生)を産む。3人の娘たちをできるだけ小さいうちから英才教育を行った。語学の知識は世界観を広げ人生に役立つという考えから、子供たちがまだ小さ頃より母国語のロシア語以外にドイツ語とフランス語でも話をした。結果的に子どもたちはロシア語、ドイツ語、フランス語の言葉を修得している。またブブノワ家ではいつも音楽を流し、ピアノを弾いて歌い子どもたちの聴力を発達させようとした。幼少期は音楽教育と絵を教え、時間さえあれば、演劇やコンサート、絵の展覧会に出かけた。この結果、絶対音感と身体能力があったマリヤはピアニスト、アンナはヴァイオリニスト、絵が大好きで常に自分で描きたかったワルワーラは画家の道を選ぶことになる。
更にできるだけ娘たちの創造的な才能を伸ばそうと考え、ロシアの最高の学校で最高の教授陣のもとで学ばそうと思った。高等音楽院でマリヤは有名なピアニストのエーシポヴァ教授に師事、アンナはロシア帝室音楽協会主宰の世界的なヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに師事。姉妹二人とも素晴らしい成績でもあり授業料は免除された。ワルワーラは12歳から芸術振興協会の美術学校に通い、1907年より有名な芸術アカデミーに入学、1914年に画家の称号と絵画の教師の資格を得て卒業した。
1914はブブノワ家にとって辛い年となる。5月にワルワーラの婚約者で芸術アカデミーで共に学んだ画家であり美術学者であったラトビア人のヴァリデマラス・マートヴェイが病気のため急逝(リガの聖ピョートル基地に葬られる)。更に7月、父も病死(ベルノーヴォ村に葬られる)。加えて、7月28日より第一次世界大戦勃発。このような状況でも芸術活動を続け、マリヤとアンナ はコンサートを始め、ワルワーラは女学校で絵を教える。この頃、日本語に興味を持ったアンナはペテルブルク大学の理学部の学生だった小野俊一(同墓)と知り合う。俊一もブブノワ家によく遊びに行くようになり、悲しみに沈む家族を元気づけたという。1917ワルワーラはモスクワの歴史博物館の職員としてモスクワに引っ越す。5月にアンナは俊一と結婚した。
1917年はロシアにとって激動の一年である。3月首都モスクワで革命が起り、300年にわたるロマノフ朝支配が終った (旧暦では2月であるため二月革命という)。政権を握ったのは自由主義的ブルジョアジーを中心とする臨時政府であったが、労働者・兵士らはおもにメンシェビキと社会革命党 (エス・エル) が指導するソビエトに結集し、臨時政府を条件付きで支持。4月初め帰国したレーニンは「四月テーゼ」を打出し、臨時政府打倒、全権力のソビエトによる奪取を呼びかけた。臨時政府打倒を主張する革命派ソビエトは漸次勢力を増し、7月には武装デモを敢行。これは政府の弾圧を受けて失敗し、一時レーニンらは地下に潜伏した。しかし9月 L.G.コルニーロフ将軍の反革命反乱が失敗するや、各地のソビエトは急速に革命化し、11月6〜7日ボルシェビキは政権を奪取、レーニンを首班とする労農政府を組織した (旧暦では10月24〜25日であるため十月革命という) 。これにより世界最初の社会主義政権「ソビエト社会主義共和国連邦」が誕生した。
ロシア革命の混乱から逃げるため結婚をした俊一とアンナは日本へ。アンナは、'19俊太郎を産む。革命に遭遇したワルワーラは母の元に戻り、'21.9日本にいるアンナを通じて東京の第8回二科展に油彩『ふるさとの秋』を出品、好評をえた。日本に興味を抱いていたワルワーラと、孫の顔が見たいニコラーエヴナは、アンナの招きもあり、1922.2.13二人は日本に向かうためロシアを離れ、リガ、ロンドン、地中海経由で6月、横浜港に到着。二人は小野家の居候となる。
ワルワーラは日本到着するや、9月に第9回二科展に油彩『肖像』と版画『グラフィカ』の2点、11月三科インデペンデント展に油彩『Sun Urb』を出品するなど、息を吹き返したかのような活動を精力的に開始した。1927(S2)ワルワーラは東京外国語学校講師に着くなど、作品制作と教育者として活躍。この年、ウラジーミル・アレクサーンドロヴィチ・ゴローフシチコフと結婚(在日ソ連総領事館に登録)した。
俊一とアンナの息子の俊太郎は、アンナから音楽の英才教育を受けていたが、更にニコラーエヴナの指導も加わり、ヴァイオリニストとしての才能を開花。6歳でコンサートに出演し、12歳からはオーケストラで第一ヴァイオリンを弾くようになる。俊太郎の演奏はラジオでも放送され神童と呼ばれた。しかし、1933.10.25(S8)14歳で急逝。医師が急性盲腸炎と気づかず、またアンナが誤って患部を温めてしまったため没してしまう不幸であった。俊太郎の没後、俊一との夫婦関係もうまくいかなくなり、1935俊一とアンナは協議離婚。しかし小野家一族はアンナと離婚後も、アンナ、ワルワーラ夫妻、ニコラーエヴナを邸宅に住まわせた。その後、アンナは小野アンナ名義で日本のヴァイオリン演奏の進展に寄与し続ける。また俊一は浪子と再婚し有五を儲ける(今回のアンナとワルワーラ記念碑建之、ニコラーエヴナ墓、ゴローフシチコフ墓の改葬は、この小野有五が行っている)。
1940ニコラーエヴナ逝去。享年86歳。多磨霊園の外国人墓地に葬られた。1947.9.22ワルワーラの夫のゴローフシチコフが急逝。享年50歳。同じく多磨霊園の外国人墓地に葬られた。小野邸宅は戦争時にも被災を免れた西洋館であり戦後も変わらず小野一族とアンナとワルワーラはひとつ屋根の下で生活を共にした。俊一が戦後ロシア文学翻訳家に転身し作品を発表する際はワルワーラが挿絵を書いた。またオノヨーコの父の小野英輔(俊一の弟)はアンナと仲が良く一時ピアニストを志すなど多大な影響を得た。小野一族は代々の銀行家、もしくはアンナやニコラーエヴナからの影響で音楽、ワルワーラからの影響で美術関連で才能を発揮するきっかけとなっている。1958小野俊一が歿すると、40年間同居させてもらった小野家を離れ、アンナとワルワーラはソ連に帰国した。