武蔵国江戸番町冬青木坂上出身。通称は太郎、名は温、寛堂は号。伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという。祖父は幕末の旗本・外国奉行を務めた傑士の川路聖謨(かわじ としあきら)。父は川路彰常(かわじ あきつね)、母は幕臣根本善左衛門玄之女の しげ の長男として生まれたが、3歳で父と死別し、母も再婚して別離、大叔父で江戸幕府御家人の井上清直夫妻に引き取られ育てられた。
6歳の時に奈良奉行から江戸へ召還された祖父の川路聖謨の庇護を受けた。同年、祖父が大坂東町奉行に異動が命ぜられたため、祖父に連れられ大坂へ移住。1851(嘉永5)祖父が勘定奉行に就任するため江戸に戻るに伴い江戸へ帰着。日下部伊三治、安積艮斎に漢学を学び、昌平黌に入学。また江戸幕府直轄の洋学研究教育機関の蕃書調所で教授をしていた箕作阮甫(14-1-2-2)に蘭学を学び、中浜万次郎(ジョン万次郎)、森山多志郎に英語を学び、のちに吉原重俊、福島敬典等と共に武田斐三郎に師事して英語や測量術を学ぶ。さらに横浜仏語伝習所でメルメ・カションにフランス語を学んだ。
1856(安政3.6.10)小姓組酒井対馬守組、後に仙石右近組に入る。この頃、祖父の川路聖謨は長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンと交渉し外国奉行として活躍。その後、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻るも、井伊直弼が大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、1859.8.27 その役も罷免されて隠居差控を命ぜられる。これにより、寛堂が川路家の家督を継いだ。
柴田能登守組を経て、1863(文久3)小納戸となり、14代将軍の徳川家茂の上洛に随行。1864(元治1)江戸に戻り、勤仕並寄合となる。1866(慶応2)幕府陸軍歩兵頭並(大隊長格)になり、同年、幕府よりイギリス留学を命ぜられた。ロンドンでエドワード・モルトビーに英語や海軍術を学ぶ傍ら、徳川昭武の来訪のため度々フランスのパリに赴き向山黄村らと協議を行った。1868(慶応4.1.4)大政奉還の報を受け、同.6.25帰国。しかし、祖父の聖謨は江戸開城直前に自決、娘の万喜は夭折しており、預けていた家財も盗まれ無一文になり失意に落ちる。
旧幕臣が静岡藩に出仕し移住する中、本籍を東京府平民とする。横浜に出て生糸貿易商を試みるが失敗し借財をつくる。この間、新政府の伊藤博文、川村純義(11-1-2-6)と面識を持ち、岩倉使節団が計画されると、留学経験を見込まれ渋沢栄一や田辺太一等によって推挙され、1871.10.22 岩倉具視特命全権大使随員として、外務七等出仕三等書記官に任命される。外務省七等出仕として随行した。1872.6.25 財政出納事務取調としてニューヨーク滞在、同.8.19 大蔵省七等出仕にもなり、1873.1.10 土木工役視察としてオランダに滞在。その後も、特命全権大使一行の一員として、ヨーロッパ各地から中国経由で使節団と共に帰国。大蔵省で会計残務の整理を行った。
1874.3.28(M7) 大蔵省検査寮改正取調掛として横浜で外国人交渉事務を担当。1875シャム(タイ)に出張。大蔵大臣の大隈重信に「現貨濫出論」を提出して金銀比価の是正を提言し、1876.3.4貨幣条例が改正されたが効果は薄かった。また西洋式簿記にアラビア数字をを用いることを伝え、米商会所の設立に参画。この間、1876.1.12 大蔵権少丞、同.2.20正七位。1877.1.11 官制改革により少丞の廃官に伴い罷免された。横浜税関長に推挙されるが実現されず、英米人の法律顧問、仲裁裁判所の特例実施等の仕事を行った。
1885 芝区三田台町に英語塾「月山学舎」を設立し、慶応義塾に入学する前の生徒に英語を教えた。1888(M21)42歳の時に長男の柳虹(同墓)が生れる。1892雑誌『平和』に「平和と戦争」を寄稿し、以降、同雑誌に一年間、平和に関する持論を展開した。
1893.8.15 広島県福山尋常中学校教員雇、同.9.10教師となる。1899.7.6 妻の花子が結核療養のため淡路島に移り、兵庫県洲本中学校教諭心得となり、修身・英語を担当した。1903.1.31 兵庫県津名郡三原郡組合立淡路高等女学校の初代校長となる。教育方針は極めて進歩的で、例えば、多くの反対意見を押し切って、'05ヨーロッパから水着を取り寄せ女学生に水泳訓練(海水浴)を実施した。以後、同校の名物行事となった。'12(T1)従六位。'14.4神戸市松蔭女学校副校長となり修身・東洋史・西洋史を教えた。'22退任以後は神戸で隠棲した。 自伝『月山漫筆』や、祖父の伝記著作『川路聖護之生涯』がある。教え子も多数おり、多磨霊園に眠っている教え子には経済学者となる大内兵衛(6-1-11-11)らがいる。享年82歳。
*墓石は洋型「川路家」。裏面は「昭和丗五年四月建之」。墓誌などはない。
*先妻は花子。花子は旗本の浅野長祚の五女。1863.9.14(文久3)結婚。1903.5.22結核で54歳で没す。後妻はサダ。元花子の付添婦で、花子死後に入籍。旧姓は吉見。先妻との長男は詩人の川路柳虹。全員同墓に眠る。
*柳虹の長女の川路夏子は女優。次女の彩子はバレエダンサーで結婚し橘あや子として活動。長男の川路明はバレエダンサー・指導者。明の妻の松尾明美もバレエダンサー・指導者。三女の美鈴はデザイナー。遠縁に(父の彰常の弟の川路新吉郎の孫)に理学博士の川路紳治らがいる。
*祖父の川路聖謨の墓は大正寺(東京都台東区池之端2-1-21)であり、早死した父の川路彰常も同墓と思われる。