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まつお あけみ

松尾明美

まつお あけみ

1919.9(大正8)〜 2013.8.5(平成25)

昭和期のバレエダンサー、バレエ指導者

埋葬場所: 10区 1種 14側 12番
〔川路家〕

 東京渋谷出身。本名は川路花子。旧姓は松尾。4歳の時に父親の仕事の関係で松山市で幼少期を過ごす。10歳の時に父を亡くし、亡父の郷里の岡山に母と5人兄弟に引っ越したが、東京出身の母が岡山に慣れず、1931(S6)一家は東京に戻った。
 大妻学院の夜学に入学するも、'33母の勧めで開校したばかりの松竹少女歌劇学校に受験。国民的スターの水の江 瀧子の活躍で、定員50人の生徒募集に対して2000人もの応募者であった。ダンスの経験はなかったが合格を勝ち取り、大妻学院は退学した。
 松竹少女歌劇学校での2年間、ラインダンスやタップ、演技や楽典などを学ぶ。成績が良い生徒は舞台出演のチャンスがあったが、松尾は成績は振るわなかった。舞踊教師で着任した東勇作の教えるダンスはクラシックバレエを基本としたもので、松尾はクラシックバレエのダイナミズムに開眼し、バレエに魅せられた。
 松竹少女歌劇学校卒業後、東の紹介で浅草の常盤座に入る。日劇がバレエ・ダンシング・チームつくりを進めていたことで、東は松尾に日劇入りを勧め入団。日劇バレエ・チーム1期生となった。そこの指導者がロシア人のバレリーナであるオリガ・サファイアであった。バレエの正式な教育を受け、純粋なクラシック・バレエの技法を身に着けた。日劇の舞台で活動していたが、'40東が初台に稽古場を開いたことを機に日劇を辞め、東勇作バレエ団の結成メンバーとなり、プリマバレリーナとして活躍。好評を博し満州公演など展開していたが、太平洋戦争とともに「西洋舞踊はけしからん」という抗議や世間の厳しい目もあり、また東が召集されたこともあったが、団員らと細々と軍隊や軍事工場などへの慰問公演を続けた。
 戦後、'46.8 東勇作バレエ団は服部・島田バレエ団、貝谷八百子バレエ団の3団体が合同で「東京バレエ団」を結成して、帝国劇場で日本初の「白鳥の湖」全幕公演を行うことになり、主役のオデット・オディール役を貝谷八百子(21-1-10-8)とのダブルキャストで務めた。10月の「ジゼル幻想」などでも主役を務めるなど、バレリーナの草分けとして活躍。
 やがて東のもとを離れ独立。慶應義塾大学内にバレエ研究会を設立し指導をする傍ら、松山樹子と一緒に約1年間、地方公演を行う。'52松尾明美バレエ団を創立。日比谷公会堂でアドルフ・アダン作曲の「ジゼル」を日本初演してタイトルロールを務めた。
 この頃より若手の芸術家集団「デモクラート美術家協会」と交流し『旋律』の美術を靉嘔に依頼するなど、前衛的な創作バレエ公演を試みるようになる。松尾はバレエダンサーだけでなく、振付師としても活躍した。武満徹、黛敏郎、芥川也寸志などの若手作曲家たちが音楽・音響を担当し、後に夫となる川路明は演出を手掛けた。'55六本木の俳優座劇場で「バレエ実験劇場」のテレビ放送公演を開催した。動く彫刻「モビール」を使った舞台装置などの創作バレエはバレエファンではなく前衛芸術関係者が多く観に来た。前衛創作だけでなく、俳優座と組んで「白鳥の湖」や「コッペリア」なども上演した。日本初演した「ラ・フィユ・マル・ガルデ」は大好評であった。'63「かぐや姫」が松尾明美バレエ団として最後の公演となった。
 その後は後進の指導や日本バレエ協会の委員、相談役などの役職を務めた。また画家としての活動も始め、二科展やサロン・ドートンヌに入賞した。心不全のため逝去。享年93歳。葬儀は密葬で行われ、後日、お別れ会が催された。2015教え子の うらわまことが著した『私たちの松尾明美』がある。

<訃報記事>
<日本バレエ史など>


*墓石は洋型「川路家」。裏面は「昭和丗五年四月建之」。墓誌などはない。

*夫の川路明の親類に、義祖父は教育者の川路寛堂、義父は詩人の川路柳虹、義姉(長女)の川路夏子は女優。義姉(次女)の彩子はバレエダンサーで結婚し橘あや子として活動。義妹(三女)の美鈴はデザイナー。


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