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かはら なつこ

賀原夏子

かはら なつこ

1921.1.3(大正10)〜 1991.2.20(平成3)

昭和・平成期の女優、演出家

埋葬場所: 2区 1種 13側〔塚原家〕

 東京都牛込区余丁町出身。本名は塚原初子。父は東京農大常務理事を務めた塚原周吾(-1974.2.24 同墓)。祖父は海事官僚、実業家で活躍した塚原周造(同墓)。
 東洋英和女学院小学部を経て、1938(S13)東洋英和女学院大学卒業。同年、文学座研究所1期生として入る。 '39「父と子」が初舞台で、翌年座員に昇格した。以来「二十六番館」「島」などで老け役を演じる。 '43文学座同期の岩本昇三と内輪の祝言をあげる。'63(S38)上演予定されていた三島由紀夫(10-1-13-32)の戯曲『喜びの琴』が、思想上の行き違いを理由に上演を中止され、それをきっかけに同座の幹部や座員が集団脱退した“喜びの琴事件”を機に文学座を退団。 なお、同事件で退団した中に岸田今日子(18-1-10-1)、神山繁(22-1-10-10)、文野朋子(22-1-10-10)、加藤治子(加藤道夫3-1-16の元妻)らもいた(彼ら彼女たちは劇団雲を創立)。
 '64矢代静一らと新文学座を意味する劇団NLTを結成。顧問には岩田豊雄(獅子文六)、三島由紀夫。 「サド公爵夫人」で大当たりし成功をおさめるも劇団内で分裂。 '68新生劇団NLTの主宰となり、主義・思想にとらわれる事なく「大人が素直に楽しめる知的娯楽としての演劇」を目指し、それまで日本ではほとんど上演されていなかった海外の上質な喜劇であるフランス・プールヴァール劇(フランス喜劇)の上演に意欲を燃やした。 '69「ロマノフとジュリエット」で演出家としてデビューし、「ササフラスの枝にそよぐ風」などを手がけた。 '82本拠地として青野平義記念館を建設。主な出演に舞台「女の一生」姑役、「夢見る頃を過ぎても」「北の望郷」、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」。
 舞台の傍ら、テレビドラマ・映画にも多数助演し、成瀬巳喜男監督作品の常連となった。 初映画は'46「大曾根家の朝」、他に'47「三本指の男」、'56「流れる」、'60「悪い奴ほどよく眠る」、'61「名もなく貧しく美しく」、'64「乱れる」、'69「人斬り」、'71「だまされて貰います」。 テレビドラマはNHK「花の生涯」「愛されずにはいられない」、民法では「これが青春だ」の青春シリーズ、ケンちゃんチャコちゃんシリーズ、「太陽にほえろ!」第一話にも登場した。 またメイクアップ技術研究家としても著名で、著書に『賀原夏子のメイクアップ入門』などがある。主な授章歴として、'58岸田国士賞、'70芸術祭賞奨励賞、'76芸術祭賞優秀賞、'85紫綬褒章、'86菊田一夫演劇賞特別賞。
 卵巣癌が見つかるも、入院して亡くなる直前まで主演舞台に立ち続けていた。「初めて死ぬのに、この経験が役者として役に立たないのが口惜しい」という格言を残している。享年70歳。 遺灰は海に散骨。 なお賀原が癌発症後、NLT代表取締役の塚原純江(旧姓高嶋)と養子縁組。塚原純江は『海に還る 女優・賀原夏子―ガン告知から8か月 残された時間を闘い抜いた女の愛と死』を出版した。 また、'68賀原主宰となった新生劇団NLTから支えてきた俳優の川端槇二も、賀原の逝去にともない養子となり劇団NLTを引き継いだ。

<講談社人名事典>
<芸能人物事典など>
<森光俊様より情報提供>


墓所 石柱

*土饅型の墓に「塚原家之墓」。右側に塚原周造墓域と刻む石柱が建つ。左側に墓誌があり、「芸名 賀原夏子 初子 平成三年二月二十日」と刻む。

*NLTの劇団名は「新文学座」を意味するラテン語「Neo Litterture Theatre」の頭文字をとったもの。岩田豊雄が命名したとされる。



第479回 「初めて死ぬのに、この経験が役者として役に立たないのが口惜しい」
女優 賀原夏子 お墓ツアー


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