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つかはら しゅうぞう

塚原周造

つかはら しゅうぞう

1847.4.20(弘化4)〜 1927.9.14(昭和2)

幕末・明治・大正期の海事官僚、実業家

埋葬場所: 2区 1種 13側

 下総豊田郡(茨城県下妻市)出身。号は夢舟。江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学んだ。 1871(M4)郵便制度の創始者である前島密の勧めで大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進めた。1880前島密らと日本会員掖済会を創立。
 1886逓信省管船局長となった。当時、荒井郁之助が箱館(函館)で討ち死にした中島三郎助のために造船所の創設を提唱しており、榎本武揚がそれに賛同したが、現職閣僚(農商務大臣)であったため表にでることができず、榎本の部下であった塚原に声がかかり、三人は会社設立に向け奔走した。 浦賀の豪商の臼井儀兵衛と緒明造船所社長の緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立。 その後、浅野総一郎(後の浅野セメント社長)らも参加し、1897日本で最初のドライドックとして浦賀船渠(ドック)株式会社(東洋汽船)を設立した。 船舶、舶用汽機等の造修を目的として、資本金100万円で設立。発起人の荒井は会社設立が決定するや、社長を塚原に譲り、監査役となった。 塚原は1896〜1903まで社長を務めた。なお、浦賀船渠代表を務めたのは浅野総一郎の他に、山下亀三郎(21-1-58)、多賀寛(26-1-47)らがいる。
 日本海員掖済会理事長、帝国水難救済会理事を歴任。郷里に茨城県育才会を設立した。著書に『水難救済事業』、1925塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員が編集発行した『塚原夢舟翁』がある。享年81歳。戒名は寒翠院殿慈浪夢舟大居士。

<講談社日本人名大辞典>
<森光俊様より情報提供>


つかはら しゅうぞう

*土饅型の墓に「塚原家之墓」。右側に塚原周造墓域と刻む石柱が建つ。左側に墓誌がある。戒名は寒翠院殿慈浪夢舟大居士。

*子の塚原周吾(-1974.2.24 同墓)は東京農大常務理事。孫に女優の賀原夏子(同墓)。


【浦賀ドック】
 正式名称は浦賀船渠(うらがせんきょ)。神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。 もともと1853(嘉永6)幕府が浦賀造船所を設置した頃からの歴史がある。 これはペリー来航により幕府は、軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。 1854(安政1)日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
 中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897浦賀船渠を設立。 同時期に同じ浦賀に東京石川島造船所の浦賀分工場が設立され、こことの間で艦船建造・修理の受注合戦を繰り広げられたことで、両社とも経営が悪化。 結果、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場を買収。渋沢栄一らの助けがあり、第一次大戦の好況により経営が立ち直った。
 1907初めて駆逐艦を建造。駆逐艦建造の名門と言われるまでに成長。 1924(T13)国内初の旅客兼車両渡船として青函連絡船「祥鳳丸」「飛鷺丸」を竣工。戦前は小艦艇建造を中心的業務とし、戦後は自衛艦艇建造を続け、「日本丸」や「海王丸」などの大型帆船、貨物船、タンカーなど1,000隻以上の船を海に送りだした。 1962(S37)玉島ディーゼルと浦賀船渠が合併し浦賀重工業となる。次いで'69住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる。'71追浜造船所(横須賀造船所)開設され、民間船建造はこちらに移った。
 2003(H15)3月12日浦賀で最後の建造となる自衛艦「たかなみ」竣工。3月31日浦賀ドックは105年の歴史に幕を下ろした。


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