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やました かめさぶろう

山下亀三郎

やました かめさぶろう

1867.5.12(慶応3.4.9)〜 1944.12.13(昭和19)

明治・大正・昭和期の実業家(山下汽船・山下財閥)

埋葬場所: 20区 1種 58側

 愛媛県宇和郡河内村(後に喜佐方村、現・宇和島市吉田町)出身。庄屋の山下源次郎・敬子の7人兄姉の末子4男として生まれる。 母の敬子は遅くに生まれた末子に対しても、「庄屋の家」の子として厳格な教育を行った。
 南予中学校に入学したが、1882(M15)16歳の時に中退し、出奔(家出)した。一旗あげたいという志を立てたからとも伝えられるが、その動機の大半は厳格な母への反発心からであったようだ。 しかし、家出をしたその日、宇和島は暴風雨に襲われ船は全て欠航、港近くの知人宅に厄介になっていた。 そこに母から使いの者が現れ、「男の子がいったん村を逃げて出て、おめおめ村へ帰って来るようなことがあってはならない。 大手を振って村野道を歩いて帰れるようになるまでは帰ってくるな」と母の伝言を告げた。厳しい母の言葉を背に四国を後にする。 大阪に出るが家出少年を雇ってくれるところはなく、京都の友人を頼り、祗園清井町の下宿屋に世話になり小学校の助教員を務める。 この京都での生活で、新島襄を助けて、同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになった。 山本から「知識を生かすには東京の方が良い」との勧めで、1884上京し、明治法律学校(明治大学)に入学する。 当時、学校には明治民法の起草者として名高い法学者の穂積陳重が東京帝大から出講していた。山下は同郷の宇和島出身であった穂積に接近し、法律学の個人教授を受けていた。 「ドロ亀」というあだ名を持ち、後に自ら無学であるかのように記している山下だが、実際には勉学にも精励したという一面をもっている。
 1889法律学校を辞めて、富士製紙会社、大倉孫兵衛紙店の店員、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店と転々とするもどれも長続きせず。1892横浜出身の朝倉亀子と結婚。 翌年、新婚の喜びもつかの間、池田商店が倒産。1894横浜にて洋紙売買の山下商店を起業するがうまくいかず、竹内兄弟商会の石炭部に入る。 日清戦争での石炭業界の好景気であり、石炭輸送の必要から初めて海運業と接することになる。1897竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えた。
 1903英国船ベンベニニー号(2373トン)を購入。購入価格は12万円。まず手付けの1万円を払い、残りの11万円の金策に奔走。 保険会社や取引先から8万円を借り受け、残り3万円は当時第一銀行横浜支店長心得の石井健吾(後の第一銀行頭取)に相談したところ、山下の意気込みを買って石井が借金して3万円を貸した。 この石井の好意に感謝し、石井が退任するまで第一銀行をメインバンクとした。こうして手に入れた第一船を故郷の名前を取り、「喜佐方丸」と命名し、海運業に乗り出した。 石炭商から海運業に乗り出した動機は、4年前に船事業の利益に目を付けたことがきっかけである。 これは、石炭を直接九州から取り寄せることになり、荷は無事に横浜に着いたが、船主は船賃が支払われなければ石炭は渡せないと主張。 荷物を渡す前に運賃を先取りするなんて、こんな小気味のよいことはない、これは石炭などをやるよりは是非船主になりたいと考えたことが始まりである。 船舶経営の経験に乏しい山下は、さしあたりブローカーの力を借りて横浜・上海航路の事業に着手するが、燃料代にも事欠く有様であった。 しかし、4年前に海運業に目を付け、そしてなぜ借金までしてこの時期に船舶経営に乗り出したのかには理由がある。 同郷で親しい間柄であった秋山真之海軍名参謀から、「日露開戦近し」の情報を入手していた。戦争になれば多くの民間船舶も徴用される。 また徴用船の傭船価格は一般の価格よりも有利なものであることは日清戦争当時の経験から知っていた。 山下は喜佐方丸を購入すると早速、近親で代議士の古谷久綱〔古谷綱武(6-1-11)の伯父〕を通じて、'03.12徴用船の指定を受けた。 これに勢いを得、'04第2喜佐方丸を購入し、直ちに海軍に徴用船として提供する。更には他社の貨物を手配し、他社船でこれを運送する海運オペレーションの分野にも進出した。
 日露戦争後、'07過大な外債償還と軍事支出が財政を圧迫し、深刻な戦後不況に突入する。海軍の徴用船を主として経営を行っていたため、この波をもろに受ける。 更に北海道の木材事業にも失敗し数百万円の負債を背負った。万策尽きた山下は、ここで奇想天外な方法を考案する。 「菱形銷却法」と呼ばれる返済方式で、返済に元利均等、元金均等などの一定の枠組を設けず、最初は少しずつ、利益が出るようになったら多く返済するというもである。 この方式で債権者を説き伏せ、二十年賦の菱形銷却法による返済を認めさせ窮地を乗り切った。なお、借財はその後の好況の波に乗ってわずか7年で完済している。
 '09以降、外航海運は好転し着実に海運業を発展させ、'11.6資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足させた。 本店は東京市日本橋区北島町(中央区日本橋茅場町)に移転し、神戸に支店も開設した。'14(T3)第一次世界大戦が勃発すると、海運業は空前の好景気となった。 大戦前のトン当たりチャーター(賃貸し)料3円、船価50円程度であったが、'17にはチャーター料が国内で30円、ヨーロッパで45円、船価6、700円と十数倍になった。 山下は勝田銀次郎(勝田汽船)、内田信也(内田汽船)とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。 この間、'15(T4)6月に満州の大連に山下汽船合名会社を設立、次いで11月に石炭部を分離独立させて山下石炭株式会社とし、翌年8月には渋沢栄一らと語らって扶桑海上保険会社(三井住友海上)を創立。 さらに'17.5山下汽船合名会社を資本金1000万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、8月には浦賀船渠株式会社(住友重機械工業)を創立するなど、矢継ぎ早に事業を拡大していった。 '17.5山下汽船株式会社と改め、社長に就任。海運業開始以来、船腹拡充に積極的に取り組み、いわゆる不定期船事業の雄として山下汽船の名を高らしめた。 大戦中にあげた利益は実に年間2900万円にのぼる(大正8年当時の総理大臣の年俸1万2000円、各省大臣や東大総長の年俸8000円であった時代である)。
 '26日本最大の傭船主となる。山下の功績は、主宰した山下汽船を世界有数のトランプ(不定期船)オペレーターたらしめ、もって日本海運の伸展と船権拡張に寄与しただけでなく、山下汽船から多くの人材が輩出され、いわゆる山下学校と称された。 山下汽船の最盛時ともいうべき'41(S16)当時の日本の総船腹量は1962隻であり、内訳は日本郵船133隻、大阪商船109隻、山下汽船55隻、大連汽船54隻、川崎汽船35隻、三井物産(商船部門)32隻の順であった。 明治から昭和初期にかけては日本郵船と三井商船の2社が飛びぬけて多い船腹量であったが、太平洋戦争開戦時においては、山下汽船はこの2社に迫る大船会社となっていた。
 '37山下汽船社長のほか渡川水力電気・阪神築港などの社長も兼ね、政界にも通じた。 また義損家としても知られ、'17故郷吉田町に山下実科高等女学校(愛媛県立吉田高等学校)、'20母親の故郷三瓶町(西予市)に第二山下実科高等女学校(愛媛県立三瓶高等学校)を設立。 '40(S15)私財一千万円に基き、後の学校法人桐朋学園の前身となる財団法人山水育英会を、翌年3月に第一山水中学校を設立した。他に、陸海軍航空設備費として100万円の献金をしたり、公共事業への寄付も積極的に行った。
 広く財界、官界さらに軍部の要人と交際し、'43東条英機内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商とさえ称された。 政府関係の委員会にも就任、第二次世界大戦末期には行政査察使に任ぜられ北海道視察に行くことになる。この視察によって病を得て、逝去。享年77歳。 死去に伴い勲一等瑞宝章追贈。著書に『沈みつ浮きつ』全2巻、1943(全1冊1952)がある。 山下汽船は長男の山下太郎(同墓)が経営にあたるが、敗戦により、'47山下株式会社は財閥解体で第五次持株会社指定をうけることになった。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<実録 創業者列伝など>


墓所

*墓所右側に「山下亀三郎 / 室 亀子」の墓石が建ち、左側に「山下家之墓」が建つ。更にその左側に墓誌がある。戒名は大用院殿義海超僊大居士。

*横浜の日本最初の臨海公園と称される「山下公園」は山下亀三郎が寄贈した場である。'23関東大震災の市の復興試案で公園計画が立案され、政府案に組み込まれる際に、寄贈者である山下亀三郎の名をとり、山下公園と名称された。'25着工、'30完成し、3月15日に開園された。


【山下亀三郎の信念と人事】
 山下亀三郎は他者の智恵「外智」と自らの判断力「内智」が経営を左右すると説く。 「仕事をする者は、思い付いたことは一つ、一つ、たとえ何年かかっても、どうしてもこうしてもそれをやる、『遂げる』ということが仕事師の信念である。 私たちのような事業をもって終始している者は自分で行わなければならない。 ある動機に接したら、どこまでも、これを成し遂げる方法を考えなければならない」と語り、『遂げる』ことこそ仕事師ひいては事業家の信念だと訴えつづけた。
 山下は人事権を握り、叩き上げとエリートの二本柱を育て上げた。すなわち、小僧上がりと大学の俊秀とを二つの柱として組織。 前者は高等小学校を終えたばかりの筋のいい小僧を『店童』として引っ張ってくる。後者は京都帝大の末広重雄、東京帝大の穂積陳重からの紹介。 採用面接は山下自らが行い、「一顔一決主義」をとり、パッと見で決めた。本人を見、そして両親のことを聞き、父と母を暗黙中に思い浮かべて採否を決する方法である。 「店童」は、意志強固な少年が選ばれ、採用者は神戸本社二階の「店童部屋」に入る。衣食住はもちろん、必要なものは会社から支給された。 石原慎太郎・裕次郎の父の石原潔は、店童から出発し、最後は重役にまでなった人物である。

<「山下亀三郎伝」山岡 淳一郎>


【「沈みつ浮きつ」山下亀三郎の波乱万丈人生】
 山下亀三郎の自伝は題して『沈みつ浮きつ』である。七転び八起きの波瀾に富む半生で、財界一番の苦労人といわれた。 16歳で学校を中退し家出をして、洋紙店の店員から身を起こし、石炭商会に雇われ、ボロ貨物船一隻で独立し、それが日露戦争で海軍御用船になったのを機に、大いに拡張して数百万円を稼いだが、戦後の反動的不況で逆に百五十万円の借金を背負う。 一時は自殺を覚悟しかけたものの、渋沢栄一の信任も得て、社運を挽回し、1914(T3)欧州戦争の勃発で未曾有の海運好況に乗る。 最盛時は総計百万トンからの船を動かして、一躍一億円級の成金となった。成金たちは競って大邸宅を建て、山下も負けじと敷地二万坪の屋敷をつくり、さらに全国十ヶ所に別荘を設けた。 みな政財官界軍人らの接待用であった。宴会好きで、招待する顔ぶれから、席順、芸者や料理の好みまで細かく気を配り、さすが苦労人といわれた。 実はその宴席で情報をつかんで商売に役立てるのも得意で、「早耳のヤマ亀」とあだ名された。そして戦後の恐慌でまた転落し、残った借金三千万円。
 この大打撃を、今度も切り抜けた。持ち船もチャーター船も手放さず、十七年間会社は無配当、自分も借金返さぬうちはフンドシも買わぬ倹約で耐え抜いて、昭和の世界的軍拡の時代をまた迎えた。 配当もめきめき復活し、'37(S12)山下汽船は資産3000万円。合計113隻、87万トンを擁し、定期航路は郵船、商船に譲るも、不定期航路なら世界の山下だった。 平和で沈み戦争で浮かび、戦争は儲かるものであった。太平洋戦争中に死去したが、敗戦まで生きていたらまた沈むところだった。

<ニッポン近代開き 起業家123人>


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