愛媛県出身。父は外交官の古谷重綱。出身地を愛媛県としているが実際の出生地は父の赴任地ベルギーで生まれ、ロンドンで育った。記者・ニュースキャスターを務めた古谷綱正は実弟。実妹の文子は新劇俳優の滝沢修に嫁いだ。伯父に政治家の古谷久綱。妻は家事・生活評論家の吉沢久子。
'21(T10)帰国。両親と離れ愛媛県宇和島の叔父の家に預けられ小学校生活を送る。その後、宇和島中学に入学するが、'24帰国した母と弟妹のいる東京に行き、青山学院中等部へ転校、翌年に成城学園に転じ、'26旧制成城高校へ進み、大岡昇平(7-2-13-22)、富永次郎らと同級となり文学に刺激を受ける。'27(S2)夏、文化史を講じていた相良徳三に伴われて京都に行き、谷川徹三を知り師事するようになった。この頃、父の重綱はアルゼンチンなど中南米に駐在し、'28(S3)外交官を依願退官。ブラジルに移住してバナナ栽培などに従事し実業家として成功。東京に住む家族のために中野落合に豪邸を建て仕送りで面倒をみた。
'29大岡、富永、河上徹太郎、中原中也らと同人雑誌『白痴群』を創刊して評論や小説を発表。同年成城高校卒業二週間前に文学に学歴不要という理由で中退した。しかし、翌年『白痴群』は廃刊。以降「葡萄園」「文学研究」「新創作時代」に加わり、'33『海豹』を創刊。太宰治や木山捷平らが参加し二人はここから文壇デビューを果たした。同年末に会費未納や会員間のすれ違いによってわずか9号をもって「海豹」は解散。この頃、中野落合の実家の豪邸は弟や妹は独立し、自由に自身が使用できたこともあり、『白痴群』や『海豹』で共にしたメンバーや、尾崎一雄、壇一雄、中村地平、長谷川素子、中谷孝雄、外村繁、田畑修一郎、古木鉄太郎など多くの人が集まり「古谷サロン」と称された。'34古谷と壇の共同編集で季刊誌「鷭」を創刊。太宰治、壇一雄、弟の古谷綱正、妹の古谷文子ら、第一号は43名、第二号は36名の執筆者の豪華な雑誌であったが第二号で終刊してしまった。
この頃より、戦争色が強くなり、父からの送金が遮断され羽振りが悪くなると、中野落合の豪邸も手放さざる負えなくなり転居。活発に文筆活動に取り掛かることになった。'36.2 文芸評論家の足掛かりとなった処女著作『横光利一』を刊行。同年『批評文学』『川端康成』を立て続けに発表。主として新感覚派以後の作家のモラルを論じる評論家の道を歩むようになった。'38『文学紀行』『純情の精神』、'39『作家の世界』、'40『風俗と道徳』、'41『演劇映画評論集 魅力の世界』、『若き日の思索』などを刊行。文芸評論の傍ら、'42家庭の不和から「女性論」をはじめ婦人評論の分野を、また郷里の友人の影響で「児童文学の理想」を書くなど、児童文学の分野をそれぞれ新しく切り拓いた。'43『文学の世界』『作家論』『才能と誠実』などを執筆。'44戦争悪化で召集を受け、徳島連隊に入隊し満州の虎林に行く。翌年高知県に転任し終戦を迎え復員。
戦後、文筆活動を再開し、引き続き評論活動を行う。'46『日本のおもかげ』『日本の文学者』『女性のために』『人生随筆』など立て続けに刊行。'51前妻と離婚をし10歳年下(綱武は43歳・久子は33歳)の秘書であった吉沢久子と再婚。マスコミに騒がれ、以降、表舞台に立つことを好まず、「一生を老書生として暮らしていきたい」と思索の日々の中で著述を続けた。
'69同人誌「むれ」を立ち上げた。女性論、児童図書、人生論など社会啓蒙的著書など数多くの著作を発表した。久子との共著もある。享年75歳。没後、福井県坂井市立図書館に自宅に所属されていた約7,000冊の図書を久子が寄贈し、「古谷綱武・吉沢久子文庫」が設立され、古谷ゆかりの品も展示されている。
<現代日本朝日人物事典> <「人生への旅立ち」年譜> <古谷綱武の人生と作品など>
*墓石は洋型「古谷」。右面に綱武は亡くなっているが「昭和五十九年五月 古谷綱武 建之」と刻む。裏面が墓誌となっている。墓誌には右から、重綱の次男で英国で生まれ一歳で同地で亡くなった弟の英綱、サダ(32歳で亡くなっている・不明)、重綱の妻で綱武の母で外交官・貴族院議員の室田義文の次女のミツ、綱武、重綱の四男で弟の綱俊、綱俊の妻の美穂子の刻みがある。遺体が献体された妻の久子の刻みはない。
*古谷綱武の父で外交官の古谷重綱は外交官を辞した後はブラジル・サンパウロに移住し、コーヒー栽培、バナナ栽培、養蚕等の経営で成功を納め、戦後もブラジル日本人会会長を務めた。移住してから日本に戻ることはなくブラジルの地で亡くなりお墓もブラジルにあるとのこと。
*古谷重綱の兄で綱武の伯父にあたる政治家の古谷久綱の墓は青山霊園(1イ16-7)にある。古谷重綱の三男でニュースキャスターなどを務めた古谷綱正の墓は不明。どなたかご存じの方はご教示お願いします。
*前妻との子の長男の古谷昭綱は京都大学卒業後、TBSに入社。『8時だョ! 全員集合』のディレクター・プロデューサーを務めた。なお久子との間に子は儲けなかった。
古谷綱正(ふるや つなまさ)
1912.4.15(明治45)〜1989.5.11(平成1)
昭和期の記者、ニュースキャスター
古谷綱武の弟。東京出身。京都帝大卒。1935(S10)東京日日新聞社(現毎日新聞社)にはいる。
学芸部などのデスクをへて'53論説委員となり、コラム「余録」を執筆。
'64退社後はTBSテレビ「ニュースコープ」のキャスターをつとめた。'75日本記者クラブ賞。享年77歳。
著作に「保守党政治の周辺」などがある。
*広い墓所に洋型の墓石がぽつりと一基のみ建つ。周囲に木などもない。弟の古谷綱正の名前は、墓石裏面の墓誌欄に刻まれていない。
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