東京深川出身。夫は文芸評論家の古谷綱武(同墓)。本名は古谷久子。義弟に記者・ニュースキャスター古谷綱正がいる。
1941(S16)速記者として活動。戦争中、婚約者が戦病死。その婚約者が外科医を目指していたことから、外科のような治療医学ではないが、お金がなくても学べる予防医学の栄養学を学び始める。のち夫となる古谷綱武の秘書をしながら文化学院、東京栄養学院、東京学校で学ぶ。また戦時中('44)綱武が召集され家族も疎開した際は秘書として一人で綱武の阿佐ヶ谷の留守宅を守った。空襲が激しくなった戦争末期、毎日新聞記者であった綱武の弟の綱正が社員寮を空襲で焼かれ住めなくなったため、同僚と共に迎え入れ男性三人を下宿させる非常時の留守居役を兼ねた。久子が住んでいた高田馬場のアパートは焼けたという(阿佐ヶ谷の地域は焼失を免れた)。綱武の原稿料が振り込まれると疎開先の家族へ送金。また下宿人のためヤミ物資の購入を行い、綱武が復員するまで家と生活を守り抜いた。この戦争中の食糧難の時代に「何を食べなければならないのか」ということから始まり、「こういうふうに食べなければならない」という、食べることについての知識を得たことが、その後の評論活動に大きな財産となったという。
'51古谷綱武と結婚。この時、綱武は43歳で久子は33歳であった。綱武は前妻と離婚をし若い秘書の久子と再婚をしたことがスキャンダラスとマスコミに騒がれた。以降、綱武は表舞台にあまり出ず、執筆活動に専念する。一方で久子は自宅にマスコミ関係者が来た際に、栄養学で学んだ料理を振舞ったことがきっかけで、新聞や雑誌に作り方を書いてほしいという依頼がくるようになった。東京日日新聞の記者がつけた『家事評論家』としてデビュー。家事経験をいかした料理や家事全般を合理的な記事で伝え、デパートの消費者相談員のはしりとなる。しかし、実生活を低く評価する傾向に反発して研究・実践を続けるが、新製品の洪水に受け身の姿勢の主婦達に失望し、'69『"家事評論家"廃業宣言』を書き話題となった。
家事評論家の執筆業以外にも、テレビ界から声もかかるようになり、東京放送(TBS)料理番組「テレビ料理教室」の司会とその台本を書く。またNHK料理番組「きょうの料理」の講師として活躍。『"家事評論家"廃業宣言』の背景には、50歳代となりカボチャがスッと切れなくなり、魚の頭もぱっと落とせなくなったことが引退の理由であると後に語っている。
その後は、生活者の目線で考える評論家として講演や消費生活相談、夫とともに始めた勉強会の記録誌「むれ」の刊行、執筆業を行った。'97から始まった朝日新聞家庭欄の連載「吉沢久子の 老いじたく考」では「等身大の老い」をやさしい視点で綴り、「老いとは何か」を問いかけた。機械化やビジネスではなく、昔は何もかも自分の手でやってきたことが人間が本来持っている能力だと台所という枠の中で自分史と重ねて『台所戦後史』を執筆した。
家事評論家時代の主な著書に、『美しい日々のために 少女の日の生活設計』、『生活のけいかく』、『わが家の食生活 食卓プランの考え方』、『奥さま一年生 家庭管理のコツ』、『くらしの365日』、『暮らしのカレンダー』、『生活のくふう』など50年代から60年代に著す。
'84夫と死別し、一人暮らしを始め、80年代からは生活者目線の評論家、快適な老後の過ごし方の提言が注目を集めた。この頃より旺盛に執筆活動が始まり、亡くなる直前まで相当数の著書を刊行。代表的なものとしては、『私の冠婚葬祭ノート』、『花の家事ごよみ』、『家事を楽しむ私の方法 暮らし上手の知恵ノート』、『老いをたのしむ暮らし上手』、『素敵な老いじたく』、『老いて幸せ』、『家事レポート 50年』、『伝え残しておきたいこと』、『ひとりで暮らして気楽に老いる』、『私の気ままな老いじたく』、『おいしく食べて元気に老いる』、『100歳の生きじたく』など著書多数。
2017(H29)2月から10月まで7冊出版し、2018.1.21に100歳を迎えた。100歳になってから翌年、心不全にて101歳2か月の大往生を遂げるまでの間も、7冊刊行(全て出版社が異なる)した。『春夏秋冬しあわせを呼ぶ生き方』海竜社、『今日を悔いなく幸せに』中公文庫、『100歳。今日も楽しい 達人吉沢久子』主婦の友社、『100歳のほんとうの幸福』PHP研究所、『100歳の100の知恵』中央公論新社、『吉沢久子100歳のおいしい台所』集英社文庫、『楽しく百歳、元気のコツ』新日本出版社。生前の本人の希望で遺体は献体され、葬儀・告別式は行わなかった。