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やました たろう

山下太郎

やました たろう

1896.4.19(明治29)〜 1970.2.26(昭和45)

大正・昭和期の実業家(山下汽船)

埋葬場所: 22区 1種 58側

 東京出身。山下汽船創業者の山下亀三郎・亀子(共に同墓)の長男。1919(T8)慶應義塾大学理財科卒業。 '21米国ハーバード大学を卒業し、父親が経営する山下汽船に入社。'28(S3)取締役に就任。'35専務を経て、'42社長に就任した。
 日本が軍国主義へとなるに連れ海運好況となり、'37には山下汽船は資産3000万円。 合計113隻、87万トンを擁し、定期航路は郵船、商船に譲るも、不定期航路なら世界の山下として不動であった。 この好況時、亀三郎が政界へ転身するのを機に、太郎が社長となって舵取りを行った。'44父の亀三郎が死去。 戦況も悪化し、ついに敗戦。'46公職追放により社長を辞任。同年、山下株式会社は財閥解体で第五次持株会社指定をうけることになった。 '51解除後、山下汽船に復帰し、会長に就任。'54山下汽船を辞任して、太平汽船、興運汽船の各会長に就任した。享年73歳。
 先妻の栄は佐賀県出身で北村七郎の四女。栄との間に2男4女。長女は道子、次女は節子、三女は恒子、四女は和子。 和子は松方正義の孫の松方峰雄に嫁ぐ。長男の山下眞一郎はナビックスライン、商船三井の副社長。次男は山下洋二郎。 後妻の茂子は銀行家の河合鉄二の長女であり、川崎財閥2代目当主の2代目川崎八右衛門の孫、郷純造男爵の曾孫にあたる。

<財界人物選集など>


墓所

*墓所右側に「山下亀三郎 / 室 亀子」の墓石が建ち、左側に「山下家之墓」が建つ。更にその左側に墓誌がある。

*アラビア太郎の名で博した実業家の山下太郎とは別人。なお、アラビア太郎こと山下太郎は神奈川県鶴見区にある總持寺(中央ホ6-18)に眠る。


【山下汽船の今】
 戦前の日本の海運業は世界第3位の船腹量を有していたが、太平洋戦争の敗戦により保有船舶の大半を喪失した上に、海運企業は戦時補償の打ち切りのため財政的にも文字通りゼロの状態から再出発をしなければならなかった。 山下汽船も山下財閥解体で第五次持株会社指定に成り下がる。 戦後、政府は計画造船を行い、戦後10余年で戦前の船舶保有量を回復したが、この制度は総花主義的といわれ船会社の乱立を起こし、邦船間の過当競争を引き起こす一因となった。 スエズ・ブームによる一時的な好景気により利子補給が打ち切られたが、ブームが去ると海運市況が急落し、海運企業は借入金の返済はおろか、利子の返済も出来ないほど収益が低下した。 国会では海運業の集約・再編成の必要性の議論がされ始め、1963日本の海運会社の国際競争力強化と海運企業の再編のために「海運集約」が制定された。 海運再建整備二法により、翌年この法律によって日本国内に約150社あった外航海運会社のうち、95社がこの法律に基づく海運集約に参加し、主要オペレーターの合併会社(中核体)を中心に6グループに集約・再編された。
 山下汽船は新日本汽船と合併し、山下新日本汽船としてスタートする。 その他の合併5社は、日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、ジャパンライン(日東商船と大同海運)、昭和海運である。 '89(H1)山下新日本汽船はジャパンラインと合併し、ナビックスライン(株)となる。 これにより社名に「山下」の名は完全に消えることとなった。'99さらにナビックスラインは、大阪商船三井船舶と合併し、現在の(株)商船三井となる。

<海運集約 辞典など>


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