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はまだ ひょう

浜田 彪

はまだ ひょう

1870.11.19(明治3)〜 1938.11.7(昭和13)

明治・大正・昭和期の造船事業家(三菱造船)

埋葬場所: 9区 1種 2側 16番

 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(大村市野田町)出身。福重村戸長を務めていた一瀬信造の次男として生まれる。旧姓は一瀬。 1891(M24)蔵前工業高等学校卒業後、技師として三菱合資会社に入社。入社後、浜田家に養子となり浜田姓となる。
 三菱入社後、長崎造船所の機械製図を担当。須磨丸、立神丸などの機関設計に携わった。 1895本社から常陸丸建造について打診があった際、塩田泰介(9-1-2-18)とともに引き受けたことが長崎造船所を飛躍するきっかけとなった。 1898電気工場が新設され、主任技士も兼任。同年より米国出張し造船・造機および電気事業を視察して、翌年帰国。 1907長崎造船所副長心得、翌年機関工場支配人兼電気主任、'11副長。'17.10.28(T6)三菱から分社独立した三菱造船株式会社が創設され取締役となる。 '17.11.1長崎三菱造船6代目所長に就任した。所長時代は第一次世界大戦下の好況で生産量は伸び、従業員数も1万8千人を超えた。
 '20本社へ転じ常務取締役となる。'25.12.24三菱造船株式会社取締役会長に就任。 '32.8.8(S7)会長職を辞任するまで、世界的な大不況の中で最高経営責任者として肝胆を砕いた。'33取締役退任し、顧問となる。 '37三菱造船株式会社顧問を解職し、株式会社三菱社の顧問に就任。脳出血で急逝。享年67歳。
 社会事業への貢献も積極的で、'29(S4)郷里の学生への育英資金や米国留学費用援助など奨学資金の寄付、育英会活動にも従事。 また、'12(M45)長崎県立長崎図書館史料収集への資金援助、'33(S8)国際フレンド会館(インターナショナルハウス)の建設費用の寄付や、野田農事改良実行組合設立援助、野田郷青年団への寄付など、郷里への慈善活動も行った。

<国際交流物語(著者:松本晃氏)>
<福重小学校卒の浜田彪さんについて:福重HP>
<上野盛夫様より情報提供>


*正面「濱田家之墓」。右側に墓誌がある。濱田家の墓所の右隣りの墓所は政治家の冨田幸次郎、その隣りの墓所が三菱造船で寝食を共にし造船事業に尽力した塩田泰介の墓である。浜田と塩田は同じ年に没している。

*1895常陸丸の製造に携わった浜田彪であるが、その常陸丸は9年後、数奇な運命をたどる。詳細は「近衛後備歩兵第一聯隊:常陸丸遭難」について記している、大久保正のページへ


【多磨霊園に眠る海事審議会委員】
 1932.5.8(S7)世界大恐慌の煽りを受け、海運業界も不況に陥った。逓信省では、この局面を打開し、恒久の対策を樹立する必要があるとして、海事審議会を設置し重要方策を審議することとなった。
 海事審議会長は逓信大臣の三土忠造。委員は船主、船員、造船業者、金融業者、海上保険業者の各代表者、関係各省当務者及び学識経験者より総勢55名の委員で形成された。この55名の委員で多磨霊園に眠っている人物たちは下記である。

商工次官吉野信次(8-1-13-19)
日本郵船各務鎌吉(16-1-1-1)
山下汽船福本貞喜山下亀三郎(20-1-58)の代理〕
三菱造船所浜田 彪(9-1-2)
浦賀船渠今岡純一郎(7-1-13-1)
大阪鉄工所鮎川義介(10-1-7-1)
保険協同会鈴木祥枝(16-1-1)


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