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おおくぼ ただし

大久保 正

おおくぼ ただし

1881(明治14)〜 1904.6.15(明治37)

明治期の陸軍歩兵少尉(常陸丸遭難)

埋葬場所: 11区 1種 2側 3番

 東京市士族。大久保一翁(同墓)の孫。近衛後備歩兵第一聯隊旗手陸軍歩兵少尉として1894(M27)6月15日常陸丸に死す。享年24歳。皇后より百円を賜ふ。正八位勲六等。

<明治過去帳737頁>
<五輪塔様より情報提供>


*大久保一翁(忠寛)は1888.5.24(M20)子爵を授爵した年に没したため、業が子爵を継承した。 その後、立→寛一→忠昭が後継継承した。業は鉄道技師、立は海軍造船中将・貴族院議員、寛一は帝室林野局技師。 なお、大久保家之墓は青山墓地にあったが、1937(S12)10月20日区画整理のため多磨霊園に改葬した。

*墓所正面自然石に上部に「大久保氏墓」と横書きで刻み、正面に縦書き「一翁忠寛之墓」と刻む。これは「勝海舟の書」。また小さく生没年月日も右上に刻む。また裏面に「東京市都市計画に因り 昭和十二年十月二十日 青山墓地より当多磨墓地に改葬す」と刻む。

*墓所には5基建つ。正面は「一翁忠寛之墓」、右側に古い墓誌、左側に並んで左から「大久保谷子 墓」、「大久保業世廣 墓」。墓所右手側に「大久保立 / 幾子 墓」。左手側に「大久保家之墓」。建立之者は大久保忠昭。その左側に新しい墓誌があり、大久保喜久子、為國、俊茂、恵子(徳川家達の娘で寛一の妻)、寛一(帝室林野局技師)、能忠の刻みを見ることができる。


【近衛後備歩兵第一聯隊:常陸丸遭難】
 明治37年6月15日、近衛後備歩兵第一聯隊本部、同第二大隊主力及び輜重兵第十大隊の糧食一縦列が乗船の常陸丸が、 沖の島付近でロシア艦の攻撃を受けて撃沈された。 この時、聯隊長の須知源次郎中佐は、策の施しようがないことを察し、旗手大久保正少尉に命じて軍旗を奉焼させ、これを見届けてから自決した。 聯隊長は自決前に逸脱を図るよう命じたが、第二大隊長以下千余名の将兵は自決又は戦死し、漂流中に漁船に救助された下士卒は約150名であった。 その後、聯隊主力の再編成は非常に迅速に行われ、2週間後の6月28日には軍旗が再授与されている。


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