江戸二番町出身。幕人・旗本の大久保忠向・みさの子として生まれる。幼名は金之助、通称は三四郎、三市郎。
職制の通称名としては右近、将監(しょうげん)、伊勢守、越中守など。諱(いみな)は初め忠正、つづいて忠寛。
雅号は石泉、桜園、虚堂、明善館、日新館、自由楽地斎を名乗る。
1842(天保13)家督を継ぎ、西丸小姓から小納戸役に進む。わずか12年後の1854.2(安政1)には徒頭(かちがしら)を命じられる。
精励格勤の覚えも目出度く、老中の阿部正弘に登用され、三月目の同年5月には徒頭から目付役に抜擢された。
目付は旗本以下の監察官である。軍制改革にも参画。1856蕃書調所頭取を兼ね、翌年長崎奉行。
しかし、長崎の腐敗を知って潔しとせず拒否。そのため、駿府奉行へ左遷された。だが、1858禁裏(朝廷)付として起用され、1859.2京都奉行へと進んだ。
ところが時の大老井伊直弼に一橋派に通じると忌まれ、同年6月には西の丸留守居役にまたも左遷され、次いで罷免。
井伊直弼が討たれた翌年の1861(文久1)8月に、再び有能を買われて再登用され、蕃書調所頭取。10月には外国奉行へ累進し越中守となる。
次いで大目付、側用取次役に取り立てられた。これは老中からの書類を将軍に取次する役であり、内容に口添え、意見具申する幕閣最高の重要な役職である。
この頃から大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体論を唱え松平慶永や勝海舟らに影響を与えたものの、幕府有司の反発を受ける。
後年、議会制を主張した先覚者と評される。同11月差控に処せられ講武所奉行となった。
1864.7(元治1)勘定奉行となったが、自説を主張して譲らず老中と激突し、またしても罷免。勘定奉行はたった4日で免職となった。有能なるための数度にわたる敗北だった。
11代徳川家斉以来5代の将軍に仕え、人格識見をもって幕政の枢要についたが、1865(慶応1)49歳の時に隠居して「一翁」を号した。
1868(M1)会計総裁や若年寄となるも、江戸城無血の明渡しのため、主家の忠節の誠ある“もののふ”であったにもかかわらず、「主家を売り渡す不忠の臣」との非難をうけるが、勝海舟や山岡鉄舟らと共に無血開城に貢献したため、「江戸幕府の三本柱」ともいわれる。
徳川慶喜の大政奉還後は徳川家の善後策に尽力して、1869.8静岡藩権大参事、廃藩置県後の1871.11に静岡県参事となり、旧幕臣の間に重きをなした。
翌年文部省に入るが、政府は過渡期の東京市政を円滑に運営すべく、1872.7.15〜1875.12.19(M5〜M8)第5代東京府知事に任ぜられた。
東京会議所の民会組織への改革を図るも挫折。府知事退任後は教部少輔となり、教部省廃止にともない、1877元老院議官を務めた。立場は新政府とは隔たったところに身を置いた。
1887.5.24(M20)子爵を叙爵。晩年、写真を撮ったときの言葉として、「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿のはずかしきかな」と感慨した。
著書に『桜園集』や、晩年記した『大久保世記』などがある。『大久保世記』の末文に、「子孫世々祖先の芳名を汚さず何業にても世の益となるべき事を心がけ励むべく、且つ徳川家高恩世々忘れることなかれ」が辞世となった。享年70歳。
*没後、青山墓地に葬られるも、1937.10.20(S12)区画整理のため多磨霊園に移された。
*大久保一翁が子爵を叙爵した翌年に没したため、直ちに嗣子として長男の大久保業(同墓)が授爵した。
業は鉄道技師として活動していたが、盛岡地方線路架設の実測中に豪雨で遭難し溺没する事故死したため、一翁の三男の大久保立(同墓)が急きょ、家督を継ぎ、子爵も授爵した。
立は海軍造船中将、貴族院議員(子爵議員)として活躍。その後は大久保寛一(同墓)が継ぐ。寛一は帝室林野局技師。
寛一の妻は徳川達孝(伯爵・徳川慶頼の4男で兄に徳川宗家を継承した徳川家達)の娘の恵子。寛一の後は大久保忠昭が継ぐ。
なお、同墓には陸軍歩兵少尉で常陸丸遭難に遭った孫の大久保正(同墓)も眠る。
*昨今、古川 愛哲 著の『勝海舟を動かした男 大久保一翁』や『坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁』で注目されている。