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うちだ とくお

内田徳郎

うちだ とくお

1871(明治4.2.9)〜 1931.12.9(昭和6)

明治・大正・昭和期の造船技術者、実業家

埋葬場所: 8区 1種 16側

 播磨国加古郡高砂町(兵庫県高砂市)出身。内田兵右衛門の二男。1910(M43)分家。
 1896(M29)帝国大学工科大学機械科卒業。東京石川島造船所に入り、旋盤工として働き始める。その後、設計士となり、蒸気機関やディーゼルエンジンの設計・開発に携わる。1908 技師長に就任し、造船所の技術開発を指揮した。
 '12.8.18 取締役支配人の時に機械工業視察のため渡英。滞英中グラスゴーに本社があるサー・ウィリアム・アーロル&カンパニー(Sir William Arrol&Co.)と交渉し、鉄骨建築、起重機 等の製作に関し必要ある場合には同社の設計又は製作材料の供給を受けられる交渉を成立させた。'13.1 帰国。
 '18.6.25(T7)臨時株主総会で社長が渡辺嘉一、取締役に内田が就任し、東京月島鉄工所の取締役兼任も決定した。
 この時期、世界で初めて1,000馬力以上のディーゼルエンジンを設計・開発に成功し、さらに、'20 世界で初めて10,000トン級以上のタンカーを建造、'23 世界で初めて10,000トン級以上の貨物船を建造した。日本の造船技術を世界トップレベルに押し上げた。
 取締役 兼 支配人 兼 技師長として活躍し、'21 専務取締役となる。他に石川島飛行機製作所取締役や、日本トロールの重役も務めた。
 会社退職後、'29(S4)頃、日本で初めて海苔乾燥装置を発明した。それまで海苔は天日で乾燥させていたが、気候に左右されやすく、品質も安定しなかった。発明した海苔乾燥装置は、海苔をコンベヤーに乗せて、海苔を均等に乾燥させるため一定の速度で動き、乾燥機は海苔を温風で乾燥させる。海苔は乾燥機を通過することで、水分が蒸発してパリパリになる。この機械により品質を安定させることができるようになった。天日乾燥では1日に数枚しか乾燥できなかった海苔が、海苔乾燥装置を使うことで、1日に数百枚乾燥させることができ、海苔の生産性を大幅に向上させた。これにより、海苔の価格も下がり一般庶民にも親しまれることになる。日本の海苔産業に大きく貢献しただけでなく、輸入品として海苔を世界中の人々に届けるきっかけにもなった。享年60歳。

<講談社日本人名大辞典>
<(株)東京石川島造船所『東京石川島造船所五十年史』>
<人事興信録>


*墓石前面「鎮霊」、台座「内田家」、裏面「昭和七年一月二十六日 内田誠一 建之」。左側に墓誌が建つ。墓石は早死した長女と二女から刻みが始まり、次に内田徳郎が刻む。妻はヱツ(M4.1-S14.9.11)。京都出身、司馬ノフの長女。二人の間には3男3女を儲ける。長女の光子は1歳で早死。二女の稻は10歳で早死。長男は誠一(M38.9-S16.1.18)。二男晋次(M40.10-S30.1.2)。三男德三(M42.10-S44)。三女は艷子(M44.11生)。三女以外は全員同墓に眠る。

*多磨霊園に眠る石川島造船所関係者は、造船界第一人者で顧問を務めた今岡純一郎(7-1-13-1)。石川島造船社長を務めた海軍中将の松村菊勇(10-1-2)。正規の軍艦籍に入籍「宗谷」の初代特務艦長で石川島造船所にて改装させた海軍少将の山田雄二(9-1-19)。バス通りに近い2区に建つ「神野信一碑」が建つ。産報運動の先駆は石川島造船所につくられた石川島自彊組合を中心とする日本主義労働運動で、その指導者が神野信一である。他に造船業の発展に貢献した近藤基樹(6-1-1-3)や、軍艦設計の神様と称された平賀譲(23-1-2-15)、戦艦大和などを設計した牧野茂(24-1-8)など日本が誇る造船技術者は多く眠る。


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