メイン » » 神野信一 碑
神野信一 碑

神野信一 碑

碑石所在地: 2区1種7側沿いのバス通り角地
建立年月日: 昭和 9年 8月 11日
碑石地面積: 12m2
永代使用料: 300円

 題額とは「額に詩や文章を書くこと」。
 碑石の裏面に「石川島造船所」なる文字を確認できたので調査をした。 1938(S13)会社組合による労働運動の追放を目的として、時局対策委員会が「労働関係調査方策」を決定、 これに基づき「産業報国連盟」が設立。 産報運動の先駆は石川島造船所につくられた石川島自彊組合を中心とする日本主義労働運動で、その指導者が神野信一である。
 当時のこのような組織が軍隊と密接に結びついていたことは自明の理であり、造船所=海軍という構図もおのずと解釈ができる。

<峯一央氏との調査結果より>


神野信一碑(近景)
神野信一碑(遠景)

*この題額を書したのは海軍中将の松村菊勇で、この人物は1939(S14)末に予備役となり、石川島造船社長を歴任している。 なお、松村菊勇は多磨霊園(10区1種2側)に眠る。


神野信一(かみの しんいち)
1889.1.3(明治22)〜 1933.9.19(昭和8)
大正・昭和期の日本主義労働運動家
 愛媛県出身。神戸の湊川実業補修学校卒業。川崎造船所、仁川鉄工所などを経て、1918(T7)石川島造船所に入った。 '20(T9)3月から一年間、技術修得のためスイスに派遣されたが、この海外での見聞を契機に国家主義者に変じ、 労働運動に敵対するようになった。 '21石川島造船所争議に際してはその切り崩しに奔走し、'24には乃木希典を崇敬する修養団体を所内に設立、 '26には乃木譲を母体に石川島自彊組合を結成してその組合長に就任した。 同組合は綱領に「建国精神の尊重」を掲げ、後の産業報告会の先駆とも言われている。 陽明学者の安岡正篤に師事し、松本学ら内務官僚の援助を得て、日本主義労働組合の拡大をはかった。 '29(S4)武相労働連盟に参加してその主導権を握り、'32には国防献金労働協会も組織。 '33メーデーに対抗して愛国労働祭を実施、日本産業労働倶楽部を組織したが、数ヶ月後に病死した。

<新潮人名辞典>


関連リンク:

松村菊勇

峯一央氏 監修:「殉国の碑



| メイン | 碑石リスト | 番地マップ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。