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やまだ ゆうじ

山田雄二

やまだ ゆうじ

1895.10.17(明治28)〜 1942.8.28(昭和17)

大正・昭和期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 9区 1種 19側

 福岡出身。1918.11.21(T7)海軍兵学校卒業(46期)。'19.8.1少尉に任官し、鞍馬乗組。水雷校普通科、砲術校普通科で勉学し、野分、谷風の乗組、'21.12.1中尉となり、平戸、楓の乗組、比叡分隊長心得、'24.12.1大尉、'27.11.1(S2)大井水雷長、'29.11.30青葉水雷長を経て、'30.12.1少佐となり、足柄水雷長となる。 '32.11.15芙蓉艦長、'33.11.15文月艦長(〜34.5.15長月艦長 兼務)、'35.10.15初霜艦長を歴任し、'36.12.1中佐に進級し江風艤装員長、'37.4.30艦長、'38.8.10朧艦長となった。
 その後も、'39.3.1北上副長、同.5.15沖島副長、同.11.15神通副長を経て、'40.4.24宗谷艤装員長、同.6.4宗谷の初代特務艦長に就任した。宗谷は元は「地領丸」として竣工('38.6)、正規の軍艦籍に入籍('39.11)され海軍艦政本部により宗谷と改名。 石川島造船所にて、8cm単装高角砲1門、25mm連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域強行測量艦として運用するつもりだった。 当初通り、千島列島、マリアナ方面の測量を行い、ボナペヘとトラック島の間を測量した後、戦争が悪化し、横須賀に戻り、特設輸送船の指定を受け、戦争の荒波の中へ突入していった。戦後、南極観測船「宗谷」となり、現在は東京お台場にある船の科学館で一般公開されている。
 '40.11.15第23駆逐隊司令、'41.8.11第20駆逐隊司令、同.10.15大佐に昇進し、太平洋戦争が勃発。'42.6.5日本が戦争における主導権を失う大きなターニングポイントとなったミッドウェー海戦に参戦。同.8.28戦死。享年46歳。没後1階級特進し、少将となる。従4位 勲2等 功3級。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍総覧など>


墓所

*墓石は2基建ち、左側が「山田家之墓」、右側が「海軍少将 従四位 勲二等 功三級 山田雄二 / 篤枝 之墓」。墓所右手側に山田雄二の辞世が刻む墓誌が建つ「辞世 よしや身は 水漬屍と なりぬとも わが荒魂は みくに 護らん 山田雄二」

*水漬屍=みずかばね。万葉集の詞を引用した軍歌『海行かば』の第一小節に「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)」という歌詞があり、当時の海軍の出征兵士を送る歌として愛好されていた。

*山田雄二の墓石の左面には下記が刻む。「記 慈に父山田雄二の墓を建立して以来、既に六〇年の歳月が経過した。これを機に、父母の遺志を継承し、改めて山田家の墓碑とする。而して、国家の柱石として殉した初代雄二の栄誉を末永く伝承すべく、ここに顕彰するものである。 平成十五年五月吉日 山田健雄」


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