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こんどう もとき

近藤基樹

こんどう もとき

1864.4.16(元治1.3.11)〜 1930.3.8(昭和5)

明治・大正・昭和期の軍艦設計者、男爵、海軍造船中将

埋葬場所: 6区 1種 1側 3番

 東京出身。工部大学校で機械学科と造船学科の両方を卒業し、1884(M17)海軍省に入る。主船局に配属され、二等工長に任官。 1887イギリスのグリニッジ海軍大学に留学し、1890同校造船学科を卒業して帰国。 海軍大技師となり横須賀鎮守府造船部計画科主幹に任じられ、以後大正期の戦艦「長門」「陸奥」に至るまで一貫して軍艦の設計に関与した。 また1893〜96帝国大学で造船学を講じ、逓信省や民間造船所にも協力して造船業の発展に貢献した。1908海軍造船総監。 1915(T4)工学博士。1919法令改正により造船総監から海軍造船中将。1922艦政本部出仕を最後に侍命、翌年予備役となる。 1929.12.26(S4)男爵を授爵。従三位 勲一等 功四級。享年67歳。基樹没後は、次男の近藤雅樹(同墓)が男爵の爵位を継承した(長男早世のため)。
 妻の鉄の父の近藤真琴は、攻玉社を創設し、日本における航海術・測量学の基礎を確立した明治の六大教育家の一人である。 結婚を機に、基樹は近藤家の養嗣子となった。妻の鉄の妹である婉子は男爵・海軍中将の山内万寿治に嫁いだ。 基樹没後に爵位を継承したのは次男の近藤雅樹(長男の千別が早死のため)。近藤雅樹(1960.4.22没 同墓)は陸軍少佐・財団法人攻玉社長である。三男の近藤茆樹(1981.7.8没 同墓)は海軍造船大佐。

<朝日日本歴史人物事典>
<日本の名門1000家>
<帝国海軍提督総覧>


墓所


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