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おやどまり ちょうせい

親泊朝省

おやどまり ちょうせい

1903.9.18(明治37)〜 1945.9.3(昭和20)

昭和期の陸軍軍人(大佐)

埋葬場所: 25区 2種 8側 27番

 父は教育者として著名な親泊朝擢(同墓)であり、その第三子長男として生まれる。 1925(T14)陸軍士官学校(第三十七期)騎兵科を首席で卒業し、1936(S11)には陸大馬術教官となる。 '39陸大専科へ入学し翌年卒業し、以後騎兵学校教官、陸軍師範学校戦術教官などにもつき、作戦主任参謀としてガダルカナル島の攻防戦にもその身を置く。 '44大本営報道部員となり、阿南惟幾(13-1-25-5)の秘書もかね、終戦時は大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官であった。 1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で日本が無条件降伏文書に調印をした翌日、妻と子二人とともに拳銃自決をした。 『草莽の文』と題した遺書を陸軍内部に配布し、軍の反省と日本の将来を憂いた。

ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます。
皇国の前途をよろしく頼む

 作家澤地久枝の『自決こころの法廷』では未発表の関係書簡が紹介されている。 それは朝省の妻・英子の兄であり、朝省の親友でもある菅波三郎の書簡で、その中で朝省最後の言葉として次のように記されている。

「終戦の間際 天皇、皇太后ら全く意気地なし。
みずから戦を宣しておきながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。」


*ここ親泊家の墓所には、殉死を遂げた親泊朝省一家(妻・英子、長女・靖子、長男・朝邦)のほか、その父母の親泊朝擢・ウシ夫妻と彼の弟にあたり教育者として著名であった親泊朝晋らが眠っている。 その朝晋の妻である芳子は、尚順(21-1-2-5)の5女である。

<「自決こころの法廷」澤地久枝>
<仲村顕様より情報提供>
<峯一央様より情報提供>


*H13.5.7夕刻、私宛にFAXがNHK出版企画開発部から届いた。 それには、この親泊朝省と2・26事件に関わった人物の菅波三郎のお墓が多磨霊園に眠っているらしいという調査依頼であった。 翌日さっそく、調査をし親泊朝省の墓を見つけ出した。しかし、このお墓には墓誌も戒名彫刻もなにもない墓であったので、確かな確証を得るために管理事務所の埋葬者リストで特別に探してもらい、確証を得た。 しかし、菅波三郎なる人物は多磨霊園に埋葬されていないこともわかった。調査報告をNHK出版向坂好生氏に報告をした。 7月某日にNHK出版から一冊の本が届いた。澤地久枝著の「自決こころの法廷」だ。 その最後のページの方に、多磨霊園のお墓に関することが記されており、私が報告した内容と類似していたので、力になれたことが証明され感無量である。


関連リンク:

親泊朝擢親泊朝晋阿南惟幾尚 順

峯一央氏 監修:親泊朝省殉国の碑」より



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