沖縄県出身。教育者の親泊朝擢、ウシ(共に同墓)の第三子長男として生まれる。琉球王国第二尚氏王統・第3代 尚真王の長男の尚維衡こと浦添朝満の後裔に当たる子孫。
沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校を経て、1925.7.25(T14)陸軍士官学校(37期)騎兵科を首席で卒業。同期に隼戦闘機隊長の加藤建夫(のちの少将:20-1-12-19)らがいる。
'31(S6) 満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。'34 陸軍大尉に昇進し、騎兵第25連隊中隊長に着任。'36 陸軍大学校馬術教官となり、'37 参謀本部副官、'39 陸軍大学専科へ入学し翌年卒業、以後、騎兵学校教官、また第38師団参謀を歴任した。
'42 中佐になり、陸軍士官学校教官になる。太平洋戦争では作戦主任参謀としてガダルカナル島の攻防戦にもその身を置く。しかしマラリアにかかり日本に戻る。その後、'44 大本営報道部員となり、阿南惟幾(13-1-25-5)の秘書も兼ね、'45 大佐に昇進。終戦時は大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官であった。
1945.9.2 戦艦ミズーリ号で日本が無条件降伏文書に調印をした翌日、9月3日、小学校4年生の長女の靖子と、小学校2年生の長男の朝邦にサイダーに青酸カリを混ぜて飲まし、妻の英子を拳銃で撃った後、自身も拳銃自決をした。享年41歳。
『草莽の文』と題した遺書を陸軍内部にて配布していた。そこには「ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます。諸兄、皇国の前途をよろしく頼む」とあり、軍の反省と日本の将来を嘆き悲しんだ文章が続く。
作家の澤地久枝の『自決こころの法廷』では未発表の関係書簡が紹介されている。それは朝省の妻・英子の兄であり、朝省の親友でもある菅波三郎の書簡で、その中で朝省最後の言葉として次のように記されている。
「終戦の間際 天皇、皇太后ら全く意気地なし。みずから戦を宣しておきながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。」と書かれていた。
<「自決こころの法廷」澤地久枝> <仲村顕様より情報提供> <峯一央様より情報提供>
*墓石は和型「親泊家之墓」。当初は朝擢が墓石がわりに石を置いていたが、昭和三十三年十一月に墓石を建立している。なお当初置かれた石は現在も墓所左手前にある。
*親泊家の墓所には、一家自決をする親泊朝省一家(妻・英子、長女・靖子、長男・朝邦)のほか、両親の親泊朝擢・ウシ夫妻と、弟で教育者の親泊朝晋夫妻、朝晋の早死した長男も眠っている。朝晋の妻である芳子は、尚泰王の三男で男爵の尚順(21-1-2-5)の5女である。芳子の姉のツルが「日本のカキ王」と称せられる宮城新昌に嫁いでおり、その子どもがタコさんウインナーの考案者で料理研究家の尚道子と岸朝子であり姪にあたる。尚順の弟の尚光の長男の尚明の妻が尚道子。(尚光・尚明・尚道子:11-1-4-22)。
*H13.5.7夕刻、私宛にFAXがNHK出版企画開発部から届いた。それには、この親泊朝省と2・26事件に関わった人物の菅波三郎のお墓が多磨霊園に眠っているらしいという調査依頼であった。翌日さっそく、調査をし親泊朝省の墓を見つけ出した。しかし、このお墓には墓誌も戒名彫刻もなにもない墓であったので、確かな確証を得るために管理事務所の埋葬者リストで特別に探してもらい、確証を得た。しかし、菅波三郎なる人物は多磨霊園に埋葬されていないこともわかった。調査報告をNHK出版向坂好生氏に報告をした。 7月某日にNHK出版から一冊の本が届いた。澤地久枝著の「自決こころの法廷」だ。その最後のページの方に、多磨霊園のお墓に関することが記されており、私が報告した内容と類似していたので、力になれたことが証明され感無量である。
第436回 終戦後に家族と共に拳銃自決 琉球王朝の子孫 陸軍大佐 親泊朝省 お墓ツアー
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