安芸国沼田郡安村(後の安佐郡、広島県広島市安佐南区相田)出身。東田禮助の3男。天野曽助の養子となる。旧姓は東田。別名は天野國手。1872.12.11(M12)天野家の家督相続。
若くして長崎に遊学し、オランダ医学を学ぶ。ドイツ人医師から内科学を修め、オランダ人医師から眼科学を修めた。また別のドイツ人医師から産婦人科学を修めた。1869(M9)同じオランダ医学を修めていた同郷で兄のように慕っていた富士川雪(ふじかわ すすぐ 1830-1898 旧姓は藤川)と新薬研究所をつくる。富士川宅で毎月一回有志の医師を集めた研究会で、医道の高揚、医人の人格練磨をも併せ飛躍につとめた。
1879「奬進医会」と改称し、同盟簿署名者となり幹事役をつとめた。その後、広島での勉強会に留まらず、1892(M25)に富士川雪の長男の富士川游や広島藩医の呉黄石(21-1-25-1)の三男の呉秀三(5-1-1-9)らが私立奨進医会として東京に進出させ、1915(T4)私立を外し、歴史と動議に関する部門を「奨進医会」と称し、他の事業部門を「日本医師協会」とした。1927(S2)奨進医会を改組し「日本医史学会」となり、初代理事長は呉秀三、2代目は入沢達吉、3代目は富士川游、4代目は藤浪剛一(9-1-10)と代々続き現在に至る。
1890.3.5(M23)天野は広島に留まり、広島市鍛治屋町に移住し天野医院を開業。コレラ患者に当時あまり使用していなかったリンゲル、食塩水を補液のため注射してよく全治させていたため、広島の「コレラ医者」と市民から親しまれた。1895安芸郡和庄町(呉市)にて移転開業。連日百名を超す患者がある中、安村にも週一回診療を行った。1898自宅開業と呉駆梅院院長を兼務。泉場町の衛生組合長も務め「東泉場」繁華街の公衆衛生向上に献身的に尽力した。
1907.5.10 志を持ち上京し富士川游の宅に一時寄留、東京市本郷に転籍をし東京での医業を展開しようとしていた矢先、上京し二か月後の7月に安芸郡や呉市に大水害が発生したため、8月には呉に帰郷し、再び地元での医業を再会することにした。当時の呉市は大水害が多く、被害が多発、妻が保証人となっていた店が倒産するなど大部分の財産を失った(妻との一時的な離縁の理由はこれが原因ではないかとされてる、直ぐに復縁)。
'13.8(T2)アメリカ医学研究のため渡米。北米カリフォルニア州サンノゼに赴き、アメリカ人医師ドクタービイテイと開業(桑原病院)。また現地の日本人病院にも所属。'18長男の天野あじか(同墓)も医師として渡米し、父の星夫と同居した。翌年、往診中、洋式の床にすべり胸部打撲と肋膜炎、肺炎を併発し急逝。享年69歳。別名天了様といわれ、体格は西洋人にも似て大きく、立派な長い髭、高い鼻、大きな眼であり目立つ存在であったようだ。草創期の医学界の先人として活躍した。
<「祖先をたずねて(天野家)」天野節夫・天野あきら> <ご遺族の天野博史氏に情報提供>
*墓所正面右側に洋型「天野家」、裏面が墓誌となっており、天野星夫、知恵を筆頭に長男の天野あじか家代々が刻む。また「昭和四十九年十月 天野節夫 建之」と刻む。墓所正面左側は「天野家」墓塔が建つ。裏面に天野かなえ建之などの刻みがある。墓所左手前に墓誌があり、こちらの墓誌は天野星夫の三男の天野かなえ家代々が刻む。
*生前、天野あじかは、死後、弟の天野かなえと同じ墓所で眠ることを懇願していたため、墓所内に二基建之されたとのこと。
【ナイチンゲール墓を模した天野家の墓塔の逸話】
天野かなえ(天野星夫の3男)の長男の天野あきら の次男である天野博史氏からの逸話である。
医師であった祖父(天野かなえ)は、クリミア戦争の看護師として名を馳せた“ナイチンゲール”を尊敬していたらしい。そんな祖父がイギリスの彼女のお墓を訪れた際に、自分のお墓の形はこれにしようと決め、石材屋に無理を承知で生前建墓した(昭和40年代)。但しナイチンゲールはカトリックであったため、墓石の最上部に十字架が配置されているのだが、その部分だけは擬宝珠に変更したのだという話を聞いた。
*右側、現地で販売されている 絵はがき(クリックで拡大)
*代々の墓は広島県広島市安佐南区相田(旧広島安村)にある。現在建っている「天野家累代之墓」の建立者は養子嫡男で天野家に入籍した天野しぶきの長男の天野正秋である。多磨霊園は星夫と知恵が分骨され、長男のあじか、三男のかなえ以降の代々が眠っている。
*多磨霊園の天野家墓誌より、天野家墓石裏面墓誌は、天野星夫(嘉永3.7.14-1919.9.27)、知恵(1857.7.17-1921.6.30) 夫妻を筆頭に、天野あじか家の代々が刻む。あじかの四女の昌子(1927.7.27-1934.11.6)は、アメリカのカリフォルニア州サンノゼで生まれ、羅府中央学園前にてスクールバスに轢かれて弱冠7歳にて早死した。次に星夫の長男のあじか(1886.1.27-1951.2.8)、あじかの二女の博子(1924.3.24-1992.3.29)、あじかの妻の春子(1896-1992.11.12)、あじかの長男の節夫(1928.11.10-2011.1.5)が刻む。墓所内に独立した墓誌は、天野かなえ家の代々が刻む。かなえの次男で生後八が月で早死した天野毅を筆頭に、天野かなえ(1897.5.5-1967.1.2)、妻の英子(1908.5.8-1987.3.13)、長男のあきら(1930.6.4-2013.5.20)が刻む。
【天野家一族】
安芸国沼田郡安村(広島県広島市安佐南区相田)出身の天野星夫は、東田禮助の3男として生まれ、天野曽助の養子となり家督を継いだ。
1881.11.15(M14)星夫が同じ医師として慕っていた富士川雪(ふじかわ すすぐ)に四男のしぶき(草冠に口+耳+戈)が誕生したが、雪の妻のタネが他界したため、生後二か月(戸籍では生後七か月)にて、天野家に養子として迎え入れた。富士川雪の長男は医学史研究の草分け的な存在となる富士川游である。星夫の妻のサヨは病弱で子宝に恵まれなかったためと推測するが、養子に迎え入れた四十日後に、サヨ(1881.12.25歿)が他界するショックに見舞われる。29歳の若さであった。サヨは生前病床にて「私の死後、親友の知恵と再婚をするよう」と星夫に勧めていたとされる。後に、1912.9.9星夫は知恵(同墓、1857.7.17-1921.6.30 旧姓は下河内・中川家から下河内家へ養女)を後妻として入籍。1912.9.4一時協議離婚をするも、同.9.9すぐに復縁している。
後妻の知恵との間に3男2女を儲けるが、ミ子を養女に迎え入れており、ミ子は19歳の時に(1892)に山中一樹、叔母のところに入籍。二年後に前妻サヨの弟の靖に嫁いだ。養子のしぶき(草冠に口+耳+戈)は、1881.4.13(M14)生。最初の名は沙(いさご)。先にも記したように、富士川雪の4男として生まれたが生後に天野星夫に養子入籍し嫡男とする。千葉医専を卒業し、陸軍軍医となり、'29(S4)まで陸軍病院長を務め退官。最終階級は陸軍軍医大佐。退官後は、広島市内白島に開業し、後に立町に移転、天野内科医院を開業した。レントゲンがまだ珍しかった時代に於いてレントゲンによる内科的診断で注目された。医学博士。1937.12.31(S12)歿。妻は小久。長男の天野正秋は陸軍軍医少佐。
子供たちには難解な名前をあえて命名している。薬用、華、論語などからとっているため意図があると思われる。ただし常用漢字ではないため記すことができない(下に画像表記する)。
長男のあじか(草冠+貴)は(1886.1.27-1951.2.8)眼科学者。長女の道(1889.1.22-1920.2.4)は松本馨に嫁ぎ、二児を儲けるも19歳で亡くなる。二女のはな子(はな=草冠+兮)は(1893.2.1-100歳前後まで大往生)陸軍軍医大尉で開業医の大津保に嫁ぐ。次男のとん(草冠に敦)は(1896.7.13生)生後八か月で早死。三男のかなえ(匚+異)は(1897.5.5-1967.11.2)小児医学者。
あじかの長女の寿子は日本鉱業会長の佐々木陽信に嫁ぐ。二女は博子、三女の英子はジョージ安武道雄に嫁ぐ。四女は昌子。あじかの長男の天野節夫は耳鼻咽喉医学者。かなえの長男の天野あきら(日+草冠+一+人人+一+十)は小児医学者で日本小児科医会名誉会長をつとめた。
天野かなえの妻の英子の姉は小川静子であり、その娘の冨佐子が海軍中将の宇垣纒(20-1-8-18)の長男で海軍軍医大尉の宇垣博光に嫁ぎ2女を授かっている。
※ご遺族である(天野あきらの次男)天野博史氏と2019年末に仕事関連で出会い、ご先祖の墓が多磨霊園にあり、代々が医学者であることをご教示いただきました。2020年初頭に博史氏から、1992(H4)天野節夫と天野あきらが「天野家」をまとめた著書『祖先をたずねて(天野家)』の貴重な資料をお借りし、本書から抜粋引用編集して上記をまとめ掲載させていただきました。
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