愛知県出身。旧尾張藩の侍医藤浪万得の子。病理学者の藤浪艦の弟。岡山医専(岡山大医学部)卒業後、1909(M42)ヨーロッパ留学、ウィーン大学でレントゲン学を修める。
12帰国後、順天堂病院レントゲン科長となり、草創期の日本レントゲン学界に尽くした。20(T9)慶大医学部教授となり、理学的診療科を主宰。
日本レントゲン学会・日本医史学会・日本温泉気候学会などの創立に参加した。著書に「内臓レントゲン診断学」1916がある。
偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔を好み、同好団体の東京名墓顕彰会を設立した。妻の物集和子こと藤浪和子(同墓)も同会の機関士「掃苔」の編集を手伝ううちに興味をひかれ、夫妻で著名人の墓巡りを趣味とした。日本史学者の三上参次、同じく日本史学者で森鴎外の末弟の森潤三郎、書誌学者の森銑三、日本画家で『東京美術家墓所誌』を出した結城素明らは、掃苔仲間である。享年62歳。
*墓所入口横に「藤浪剛一墓所」と刻む石柱が建つ。墓所内には3基建つ。左側の五輪塔が藤浪剛一・物集和子の墓である。墓石建之者は藤浪稔。真ん中に和型で前面に法華経が刻み、裏面に奥田宏が建之者。右側に洋型「奥田家」。墓石左に墓誌が建つ。奥田良太郎から代々が刻む。奥田恵瑞(H27.5.1歿 92才)も眠る。
*奥田恵瑞と奥田秀の編集で『物集高世評伝』(2000)を刊行している。物集高世は豊後国の国文学者。長男も国文学者の物集高見。高見の長男も国文学者の物集高量で、娘の大倉燁子(てるこ:本名は芳子)は小説家、物集和子も小説家、物集千代子の息子の物集恭次郎の娘が女優の早瀬久美。物集和子の夫が藤浪剛一。藤浪剛一の兄は病理学者の藤浪鑑。物集和子と藤浪剛一の正墓は愛知県名古屋市千種区にある日泰寺。多磨霊園にも分骨されているが、多磨霊園は奥田恵瑞から遡って推測するに、子息が嫁いだ奥田家が守っているようだ。
*物集和子の戒名は「草香院秋尼妙和」。掃苔家としても著名で『東京掃苔録』の本を残している。