東京市本郷区(東京都文京区)出身。本名は和。旧姓は物集。藤浪剛一と結婚し藤浪姓となる。藤岡一枝の筆名もあり、また掃苔家としては藤浪和子としている。言文一致論を提唱した国語学者の物集高見の娘。
跡見高等女学校卒業後、1908(M41)のち推理小説家になる姉の芳子とともに二葉亭四迷の弟子入りをしようと尋ねたが、ちょうど朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、二葉亭四迷の紹介で同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。以降、二人は漱石を師事し、漱石門下の作家として活動していくことになる。
'10.7「ホトトギス」に小説『かんざし』を発表。姉の芳子が女学校時代に平塚らいてうの同級生だったことから、翌年、平塚らいてうに誘われ女性文芸雑誌「青鞜」の発起人5人のうちの一人となる。ちなみに、姉の芳子は青鞜社結成直前に外交官との結婚が決まったため急きょ辞退している。この流れで和子が代わりに入ることになったという説もある。
青鞜社は物集家の和子の自室を事務所とし、『青鞜』の編集室となった。そして、結成から二か月後の9月に創刊。和子も同誌に小説『七夕夜』『お葉』を発表した。
しかし、文部省の提唱する良妻賢母理念にそぐわないという理由で、翌 1911.4 物集家へ官憲が踏み込み家宅捜査をされ、同誌二巻四号が発禁になった。これで父の怒りを買い、表向きとして前年に母が死去したことを理由として女性解放運動からの脱退と、青鞜社を退社した(させられた)。ただその後も引き続き同誌には藤岡一枝の筆名で『おきみ』などの発表をしている。
このころレントゲン学界に尽くした放射線医学者の藤浪剛一(同墓)と結婚。結婚後は、聾教育振興会婦人部常任幹事をつとめ、障害者教育に貢献した。
夫の藤浪剛一は偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔を好み、同好団体の東京名墓顕彰会を設立した。和子も同会の機関士「掃苔」の編集を手伝ううちに興味をひかれ、著名人の墓巡りこと「掃苔」が趣味となり、'40(S15)『東京掃苔録』を藤浪和子名義で出版した。これは、'34〜'40 の間にかけて調査した記録をまとめたもので、593寺院・2477名が収録されている。再版が繰り返されている名著であり、掃苔家のパイオニアとして活躍した。なお、日本史学者の三上参次、同じく日本史学者で森鴎外の末弟の森潤三郎、書誌学者の森銑三、日本画家で『東京美術家墓所誌』を出した結城素明らは、掃苔仲間である。
'42 夫と死別。戦後は姉の芳子と同居し、晩年は習字教室を開いた。心不全のため世田谷区の老人ホーム「さつき荘」で逝去。享年90歳。
<日本女性人名辞典> <近代日本の先駆者> <人事興信録>
*墓所入口横に「藤浪剛一墓所」と刻む石柱が建つ。墓所内には3基建つ。左側の五輪塔が藤浪剛一・物集和子の墓である。墓石建之者は藤浪稔。真ん中に和型で前面に法華経が刻み、裏面に奥田宏が建之者。右側に洋型「奥田家」。墓石左に墓誌が建つ。奥田良太郎から代々が刻む。奥田恵瑞(H27.5.1歿 92才)も眠る。
*奥田恵瑞と奥田秀の編集で『物集高世評伝』(2000)を刊行している。物集高世は豊後国の国文学者。長男も国文学者の物集高見。高見の長男も国文学者の物集高量で、娘の大倉燁子(てるこ:本名は芳子)は小説家、物集和子も小説家、物集千代子の息子の物集恭次郎の娘が女優の早瀬久美。物集和子の夫が藤浪剛一。藤浪剛一の兄は病理学者の藤浪鑑。物集和子と藤浪剛一の正墓は愛知県名古屋市千種区にある日泰寺。多磨霊園にも分骨されているが、多磨霊園は奥田恵瑞から遡って推測するに、子息が嫁いだ奥田家が守っているようだ。
*物集和子の戒名は「草香院秋尼妙和」。掃苔家としても著名で『東京掃苔録』の本を残している。
第400回 女性文芸雑誌「青鞜」発起人 掃苔家のレジェンド 物集和子 藤浪剛一 お墓ツアー
|