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あまの あじか

天野あじか

あまの あじか

1886.1.27(明治19)〜 1951.2.8(昭和26)

明治・大正・昭和期の眼科学者

埋葬場所: 5区 1種 29側

 広島県安佐郡安村(広島市安佐南区相田)出身。本籍は東京市杉並。医学史家の天野星夫、知恵(共に同墓)の長男。天野家には先に養子嫡男の天野しぶき がいたため次男と表記されることもある。弟の天野かなえ(同墓)は小児医学者。長男の天野節夫(同墓)は耳鼻咽喉医学者。甥の天野あきら(同墓)は小児医学者。
 広島県内の京華中学を経て、1910(M43)大阪府立高等医学校予科、'14(T3)本科卒業。学生時代は相撲部に所属し三役として活躍。大阪病院眼科医局に入り、数年後在局のまま西ノ宮に眼科医を夜間開業した。'18.7(T7)眼科学研究のため渡米し、父の天野星夫が開業していたカリフォルニア州サンノゼに赴き、父と共にする。一時、フレスノにてドクター林と開業。
 '19 父の星夫が他界をしたのを機に、ペンシルバニア大学大学院に学び、修了後、サンノゼに戻り、'24父が勤務していたドクタービイテイ所有の桑原病院に入った。この間、ネバタ州やカリフォルニア州の開業医免許を取得。'27(S2)現地の日本病院に所属をしながら、サンノゼの自宅で開業(眼科・内外科)。翌年、診療所も開業したが、ドクター小篠からの誘いでロサンゼルスに移住。ロスの日本人病院に所属すると共に、日本人町にあるサンピードロ街オリンピックホテルにて開業した。
 在米日本人子弟日本語教育のため、有志と共に日本人学校 羅府中央学園を創立し、初代理事長に就任。また日本人病院院長も務めた。石油の採掘の事業も行い、採掘に二度失敗した後、'33ロングビーチにて良質な石油及びガスを掘り当てている。学生時代に相撲部に所属していたこともあり、二世のために相撲協会会頭となり二世相撲団を結成した。'32ロサンゼルスオリンピック開会式のエキシビジョンで、二世相撲団を引き連れ団長としてオリンピックスタジアムを行進。
 '34.11.6 四女の昌子が理事長を務めていた羅府中央学園前にてスクールバスに轢かれて弱冠7歳にて早死する悲しい出来事が起こる。'36あじかを残し、日本語教育のため家族全員が日本に帰る。翌年、二世相撲団団長として日本の大学、陸軍士官学校、海軍兵学校との親善交流試合のために一時帰国した。自身のみアメリカに戻るが、'41自身も米国を引き上げ日本に帰国することを決意(在米24年半)。
 '41.12.7(日本は8日)ロス在住の日系仲間が、日本に帰るあじかの送別のためゴルフ会を開き楽しんでいたところ、日本がパールハーバーを急襲したことをラジオで知る。夕方からは羅府中央学園の送別会にも招待されていたが、戦争のため帰国できないと思い中止を願い出るも、準備ができているからと言われ向かったが、日本人会より中止の命令が下る。これによりアメリカと日本の板挟みになっている日系人たちは深刻な状況だと悟り動揺した。
 その夜、警察にピストルを突き付けられ監獄に入れられることになる。日系人たちは百余名が捕えられ収容。四日間拘束された後、カリフォルニア州の監獄に移動させられ、劣悪な牢内に60人余りの日系人が入れられた。同.12.17 ロスより25マイル離れたタイムガ渓谷にある州監獄に移動。ここの拘留所は広々としており空気も日当たりも良く衰弱の回復につとめられた。また医者の身として体調が優れない約百人の一般患者を診た。同.12.25 カナダの国境に近いモンタナ州フォートミゾラキャンプに入り、'42.6.5 までミゾラの地にて拘束。ここに多くの日系人が集められ収容された。今まで米国のために活躍してきた日系人はスパイと見なされ囚人扱いされた。ただキャンプ内では各々の専門職の技術を活かして活動ができ、あじかはキャンプ内の診療所にて患者の診療にあたった。
 診療所に数か月に一回、国際赤十字からスイスの大使が訪れており、あじかは自身の家族は全員日本に在住している旨、早く日本に帰国ができるように手配をしてもらいたいと懇願し続けていたところ、第一次日米交換船に乗れる運びとなった。'42.6.5(S17)ミゾラを出発、ニューヨーク、ニュージャージー、リオデジャネイロ、ロレンソマルクス(アフリカ)、昭南島(シンガポール)に上陸。ここで日本船の浅間丸に乗り換え、同.8.20 横浜に到着。戦争のため小トランクひとつのみで全財産を失うも命は助かり帰国し家族と5年ぶりに再会した。
 '44.1 東京高円寺にて眼科医院を開業したが空襲に見舞われる。戦後、'50渋谷に分院を開設したが、翌年逝去。享年65歳。

<「祖先をたずねて(天野家)」天野節夫・天野あきら>
<ご遺族の天野博史氏に情報提供>


*墓所正面右側に洋型「天野家」、裏面が墓誌となっており、天野星夫、知恵を筆頭に長男の天野あじか家代々が刻む。また「昭和四十九年十月 天野節夫 建之」と刻む。墓所正面左側は「天野家」墓塔が建つ。裏面に天野かなえ建之などの刻みがある。墓所左手前に墓誌があり、こちらの墓誌は天野星夫の三男の天野かなえ家代々が刻む。

*代々の墓は広島県広島市安佐南区相田(旧広島安村)にある。現在建っている「天野家累代之墓」の建立者は養子嫡男で天野家に入籍した天野しぶきの長男の天野正秋である。多磨霊園は星夫と知恵が分骨され、長男のあじか、三男のかなえ以降の代々が眠っている。

*多磨霊園の天野家墓誌より、天野家墓石裏面墓誌は、天野星夫(嘉永3.7.14-1919.9.27)、知恵(1857.7.17-1921.6.30) 夫妻を筆頭に、天野あじか家の代々が刻む。あじかの四女の昌子(1927.7.27-1934.11.6)、あじか(1886.1.27-1951.2.8)、あじかの二女の博子(1924.3.24-1992.3.29)、あじかの妻の春子(1896-1992.11.12)、あじかの長男の節夫(1928.11.10-2011.1.5)が刻む。墓所内に独立した墓誌は、天野かなえ家の代々が刻む。かなえの次男で生後八が月で早死した天野毅を筆頭に、天野かなえ(1897.5.5-1967.1.2)、妻の英子(1908.5.8-1987.3.13)、長男のあきら(1930.6.4-2013.5.20)が刻む。

*生前、天野あじかは、死後、弟の天野かなえと同じ墓所で眠ることを懇願していたため、墓所内に二基建之されたとのこと。

墓所

*あじか誕生前より天野家には養子嫡男の天野しぶき(実兄は医学史研究家の富士川游)、養女のミ子がいた。父の天野星夫は子供たちに難解な名前をあえて命名している。薬用、華、論語などからとっているため意図があると思われる。ただし常用漢字ではないため記すことができない(下に画像表記する)。星夫・知恵は3男2女を儲ける。長男はあじか。長女の道(1889.1.22-1920.2.4)は松本馨に嫁ぎ、二児を儲けるも19歳で亡くなる。二女のはな子(はな=草冠+兮)は(1893.2.1-100歳前後までの大往生)陸軍軍医大尉で開業医の大津保に嫁ぐ。次男のとん(草冠に敦)は(1896.7.13生)生後8か月で早死。三男のかなえ(匚+異)は(1897.5.5-1967.11.2)小児医学者。かなえの長男の天野あきら(日+草冠+一+人人+一+十)は小児医学者で日本小児科医会名誉会長をつとめた。

名前/旧漢字


【ナイチンゲール墓を模した天野家の墓塔の逸話】
 天野かなえ(天野星夫の3男)の長男の天野あきら の次男である天野博史氏からの逸話である。
 医師であった祖父(天野かなえ)は、クリミア戦争の看護師として名を馳せた“ナイチンゲール”を尊敬していたらしい。そんな祖父がイギリスの彼女のお墓を訪れた際に、自分のお墓の形はこれにしようと決め、石材屋に無理を承知で生前建墓した(昭和40年代)。但しナイチンゲールはカトリックであったため、墓石の最上部に十字架が配置されているのだが、その部分だけは擬宝珠に変更したのだという話を聞いた。

天野家累代之墓 現地で販売の絵はがき:ナイチンゲール墓*右側、現地で販売されている
絵はがき(クリックで拡大)


天野春子 あまの はるこ
1896(明治29)〜 1992.11.12(平成4)
あじかの妻
 鹿児島県豊田郡出身。上杉文吉の3女。1918.5.7(T7)あじかが西ノ宮で夜間開業をしている時に婚姻した。同.7 あじか渡米により、熊本県八代市の母方の叔父の中川龍田に預けられる。この時、既に春子は妊娠しており、同.11.18長女の寿子を出生。
 '22あじかが在住しているアメリカのサンノゼに長女の寿子と共に渡米。あじかと共にフレスノからロサンゼルスに移住。この間、二女の博子、三女の英子、四女の昌子、長男の節夫を出産。昌子は7歳で事故により亡くなる。
 '36(S11)夏、子供たちの日本語教育のために夫のあじかを残し帰朝。東京都杉並に住む。'41.12.8日米開戦が勃発。'42夫のあじかが日米交換船で帰国。'44高円寺に開業のため転居。'51.2.8夫のあじかが亡くなったため、翌年より、長女の寿子が嫁いだ日本鉱業会長の佐々木陽信宅に同居。'56三女の英子が嫁いだジョージ安武道雄宅に節夫と共に同居。'59神奈川県藤沢市鵠沼に移住。'66長男の節夫が藤沢市辻堂に開業と共に移転。


天野節夫 あまの せつお
1928.11.10(昭和3)〜 2011.1.5(平成23)
耳鼻咽喉医学者
 米国カリフォルニア州ロサンゼルスのフォルサム街出身。1936(S11)渡日。慈恵医大卒業。医学博士。'66神奈川県藤沢市辻堂に耳鼻咽喉科医院を開業。前妻は絢子。前妻没後の後妻は玲子。


※ご遺族である(天野あきらの次男)天野博史氏と2019年末に仕事関連で出会い、ご先祖の墓が多磨霊園にあり、代々が医学者であることをご教示いただきました。2020年初頭に博史氏から、1992(H4)天野節夫と天野あきらが「天野家」をまとめた著書『祖先をたずねて(天野家)』の貴重な資料をお借りし、本書から抜粋引用編集して上記をまとめ掲載させていただきました。


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