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あまの あきら

天野あきら

あまの あきら

1930.6.4(昭和5)〜 2013.5.20(平成25)

昭和・平成期の小児医学者

埋葬場所: 5区 1種 29側

 東京市本郷出身。祖父は医学史家の天野星夫(同墓)。父は小児医学者で静脈内持続点滴注入装置(天野式持続点滴注入装置)を考案・発明・報告した天野かなえ、英子(共に同墓)の長男。伯父の天野あじか(同墓)は眼科医学者。従兄弟の天野節夫(同墓)は耳鼻咽喉医学者。
 1957(S32)東京医科歯科大学医学部卒業。'62東京医科歯科大学医学部内科系小児科学大学院修了。この間、'60和子と結婚。'64西ドイツのバイエルン州エアランゲン大学小児科講座に留学。'66父のかなえが病気になったため帰国。'67.11.1東京都港区青山に天野小児科医院を開業。開院翌日に父のかなえは没す。
 '84日本小児科医会常任理事に選任され、'94(H6)東京小児科医会会長を経て、'97日本小児科医会会長に就任した。小児科医が発達心理学やカウンセリングを学び、いじめや不登校その他について家族や学校に助言・指導することを目指す「子どもの心相談医」制度の発足に尽力し、'99.6 から施行の運びとなった。'99小渕恵三総理大臣による「20世紀日本の構想」のメンバーに選出されている。
 著書に『総合臨床医シリーズ 内科医のための小児救急初期治療』(共著:小池麟一郎・1983)、小児疾患治療の手引き書『小児用医薬品集』(監修・2001)がある。2008大腸がん罹患、患部摘出の手術を行う。2009日本小児科医会名誉会長に就任。2010.3.31体調不良のため、42年5か月続いていた天野小児科医院を閉院した。3年後、肝臓がん破裂による出血性ショックのため逝去。享年82歳。

<「祖先をたずねて(天野家)」天野節夫・天野あきら>
<ご遺族の天野博史氏に情報提供>


*墓所正面右側に洋型「天野家」、裏面が墓誌となっており、天野星夫、知恵を筆頭に伯父の天野あじか家代々が刻む。また「昭和四十九年十月 天野節夫 建之」と刻む。墓所正面左側は「天野家」墓塔が建つ。裏面に天野かなえ建之などの刻みがある。墓所左手前に墓誌があり、こちらの墓誌は父の天野かなえ家代々が刻む。

*代々の墓は広島県広島市安佐南区相田(旧広島安村)にある。現在建っている「天野家累代之墓」の建立者は祖父の天野星夫の養子嫡男で天野家に入籍した天野しぶきの長男の天野正秋である。多磨霊園は祖父母の星夫と知恵が分骨され、伯父(長男)のあじか、父(三男)のかなえ以降の代々が眠っている。なお、次男は生後早死している。

*多磨霊園の天野家墓誌より、天野家墓石裏面墓誌は、天野星夫(嘉永3.7.14-1919.9.27)、知恵(1857.7.17-1921.6.30) 夫妻を筆頭に、天野あじか家の代々が刻む。あじかの四女の昌子(1927.7.27-1934.11.6)、あじか(1886.1.27-1951.2.8)、あじかの二女の博子(1924.3.24-1992.3.29)、あじかの妻の春子(1896-1992.11.12)、あじかの長男の節夫(1928.11.10-2011.1.5)が刻む。墓所内に独立した墓誌は、天野かなえ家の代々が刻む。弟(次男)で生後八が月で早死した天野毅を筆頭に、父の天野かなえ(1897.5.5-1967.1.2)、母の英子(1908.5.8-1987.3.13)、自身(あきら)(1930.6.4-2013.5.20)が刻む。

*生前、伯父の天野あじかは、死後、弟の天野かなえと同じ墓所で眠ることを懇願していたため、墓所内に二基建之されたとのこと。

墓所 天野家

*父のかなえや伯父のあじか誕生前より天野家には養子嫡男の天野しぶき(実兄は医学史研究家の富士川游)、養女のミ子がいた。父の天野星夫は子供たちに難解な名前をあえて命名している。薬用、華、論語などからとっているため意図があると思われる。ただし常用漢字ではないため記すことができない(下に画像表記する)。星夫・知恵は3男2女を儲ける。長男の あじか は眼科医学者。長女の道(1889.1.22-1920.2.4)は松本馨に嫁ぎ、二児を儲けるも19歳で亡くなる。二女のはな子(はな=草冠+兮)は(1893.2.1-100歳前後までの大往生)陸軍軍医大尉で開業医の大津保に嫁ぐ。次男のとん(草冠に敦)は(1896.7.13生)生後8か月で早死。父のかなえ は(1897.5.5-1967.11.2)小児医学者。

名前/旧漢字


【ナイチンゲール墓を模した天野家の墓塔の逸話】
 天野かなえ(天野星夫の3男)の長男の天野あきら の次男である天野博史氏からの逸話である。
 医師であった祖父(天野かなえ)は、クリミア戦争の看護師として名を馳せた“ナイチンゲール”を尊敬していたらしい。そんな祖父がイギリスの彼女のお墓を訪れた際に、自分のお墓の形はこれにしようと決め、石材屋に無理を承知で生前建墓した(昭和40年代)。但しナイチンゲールはカトリックであったため、墓石の最上部に十字架が配置されているのだが、その部分だけは擬宝珠に変更したのだという話を聞いた。

天野家累代之墓 現地で販売の絵はがき:ナイチンゲール墓*右側、現地で販売されている
絵はがき(クリックで拡大)


【天野かなえ家一族】
 天野かなえの妻である天野英子〔あまの ひでこ:1908.5.8(明治41)〜1987.3.13(昭和62)〕は、広島県広島市的場町出身。旧姓は戸島。1929.4.24(S4)天野かなえと結婚し、二男を儲ける。'30.6.4 長男のあきら誕生。次男の毅も誕生するが(1947.3.20歿・同墓)生後八か月に亡くなった。なお養女の良子も迎え入れている。
 1960 あきらと和子(1936.8.24-)が結婚。二男を儲ける。長男は天野雅史(1961-)は歯医者を開業、次男は天野博史(1963-)は映像制作会社経営、一般社団法人 全日本応援協会AJO 事務局長。今回の天野家の貴重な資料は天野博史氏から拝借した。


※ご遺族である(天野あきらの次男)天野博史氏と2019年末に仕事関連で出会い、ご先祖の墓が多磨霊園にあり、代々が医学者であることをご教示いただきました。2020年初頭に博史氏から、1992(H4)天野節夫と天野あきらが「天野家」をまとめた著書『祖先をたずねて(天野家)』の貴重な資料をお借りし、本書から抜粋引用編集して上記をまとめ掲載させていただきました。


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