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あまの かなえ

天野かなえ

あまの かなえ

1897.5.5(明治30)〜 1967.1.2(昭和42)

大正・昭和期の小児医学者、点滴注入装置発案者

埋葬場所: 5区 1種 29側

 広島県呉市出身。医学史家の天野星夫、知恵(共に同墓)の3男。天野家には先に養子嫡男の天野しぶき がいたため4男と表記されることもある。兄の天野あじか(同墓)は眼科医学者。甥の天野節夫(同墓)は耳鼻咽喉医学者。長男の天野あきら(同墓)は小児医学者。
 幼児より「梅丘」と号して書に優れ神童の誉れ高かったが、いたずら児でもあったという。東本通小学校に入学した際に2学年先輩の檜垣鱗三の母堂のクラスに入り薫陶を受ける(檜垣は東大医学部を経て後に神奈川歯科大学学長)。呉中学(三津田高校)に進学。同級生に脈管学者の西丸和義、駐英大使の外交官の松本俊一らがいた。旧制第二高等学校を経て、1923(T12)東京帝国大学医学部卒業。同期に同郷で両家で親交があった呉秀三(5-1-1-9)の長男の呉茂一(5-1-1-9)がいたが、茂一は入学一年後に医学部から文学部に転部し西洋古典文学者となった。
 卒業後は三田定則教授を師事し同大学法医学教室に入る。デンプンの抗原性に関する血清学的研究を行う。'27(S2)東京医専(東京医大)法医学教授となり血清学を講義した。'29.4.24 同郷の島俊郎の4女の英子(同墓)と結婚。'30.6.4長男あきら(同墓)が誕生。'31母校の東京帝国大学医学部に戻り、栗山重信教授に師事し小児科学教室に入局。'34三樂病院小児科に勤務。'36横浜市神奈川区青木町病院に勤務し小児科部長を務めた。
 この時期に静脈内持続点滴注入装置(「天野式持続点滴注入装置」)を考案・発明・報告した。従来は静脈内分割注入法が主流であったが医師の労力、患者家族の苦痛、投与量の少なさ、静脈の損傷等の問題があった。これらの問題がすべて解決する点滴機器の発案であった。日本の点滴は明治中期までは食塩水皮下注入療法が用いられており、注入器の改良を経て、サルヴァルサン療法を通じての静脈内注射注入法が大正時代に普及。昭和初期は各種溶液の静脈内注入の試みや課題解決へ模索をされていた時代であり、かなえの発明により疫痢治療における静脈内持続点滴注入療法の導入が昭和中期まで定着する画期的な発明となった。
 '44東京の中野区本町にて小児科医院を開業したが、戦争悪化で翌年に強制疎開にあう。疎開先の長野県上田市近郊や富士山村は無医村であったので、乞われるままに村人の診療を行った。
 終戦後は東京杉並の兄のあじかの邸宅にて開業し、'49東京都中央区日本橋人形町に移転して小児科医院を開業した。日本小児科学会所属。医学博士。'62胃がんを患い六か月の余命宣告を受けたが全摘手術し奇跡的に回復。5年後、長男あきらが東京都港区北青山に小児科医院を開業した翌日に逝去。享年69歳。

<「祖先をたずねて(天野家)」天野節夫・天野あきら>
<日本医史学雑誌 第58巻第4号(2012)>
<ご遺族の天野博史氏に情報提供>


*墓所正面右側に洋型「天野家」、裏面が墓誌となっており、天野星夫、知恵を筆頭に長男の天野あじか家代々が刻む。また「昭和四十九年十月 天野節夫 建之」と刻む。墓所正面左側は「天野家」墓塔が建つ。裏面に天野かなえ建之などの刻みがある。墓所左手前に墓誌があり、こちらの墓誌は天野星夫の三男の天野かなえ家代々が刻む。

*代々の墓は広島県広島市安佐南区相田(旧広島安村)にある。現在建っている「天野家累代之墓」の建立者は天野星夫の養子嫡男で天野家に入籍した天野しぶきの長男の天野正秋である。多磨霊園は星夫と知恵が分骨され、長男のあじか、三男のかなえ以降の代々が眠っている。

*多磨霊園の天野家墓誌より、天野家墓石裏面墓誌は、天野星夫(嘉永3.7.14-1919.9.27)、知恵(1857.7.17-1921.6.30) 夫妻を筆頭に、天野あじか家の代々が刻む。あじかの四女の昌子(1927.7.27-1934.11.6)、あじか(1886.1.27-1951.2.8)、あじかの二女の博子(1924.3.24-1992.3.29)、あじかの妻の春子(1896-1992.11.12)、あじかの長男の節夫(1928.11.10-2011.1.5)が刻む。墓所内に独立した墓誌は、天野かなえ家の代々が刻む。かなえの次男で生後八が月で早死した天野毅を筆頭に、天野かなえ(1897.5.5-1967.1.2)、妻の英子(1908.5.8-1987.3.13)、長男のあきら(1930.6.4-2013.5.20)が刻む。

*生前、天野あじかは、死後、弟の天野かなえと同じ墓所で眠ることを懇願していたため、墓所内に二基建之されたとのこと。

墓所 天野家

*かなえや兄のあじか誕生前より天野家には養子嫡男の天野しぶき(実兄は医学史研究家の富士川游)、養女のミ子がいた。父の天野星夫は子供たちに難解な名前をあえて命名している。薬用、華、論語などからとっているため意図があると思われる。ただし常用漢字ではないため記すことができない(下に画像表記する)。星夫・知恵は3男2女を儲ける。長男の あじか は眼科学者。長女の道(1889.1.22-1920.2.4)は松本馨に嫁ぎ、二児を儲けるも19歳で亡くなる。二女のはな子(はな=草冠+兮)は(1893.2.1-100歳前後までの大往生)陸軍軍医大尉で開業医の大津保に嫁ぐ。次男のとん(草冠に敦)は(1896.7.13生)生後八か月で早死。三男が かなえ。かなえの長男の天野あきら は小児医学者で日本小児科医会名誉会長をつとめた。

名前/旧漢字


【ナイチンゲール墓を模した天野家の墓塔の逸話】
 天野かなえ(天野星夫の3男)の長男の天野あきら の次男である天野博史氏からの逸話である。
 医師であった祖父(天野かなえ)は、クリミア戦争の看護師として名を馳せた“ナイチンゲール”を尊敬していたらしい。そんな祖父がイギリスの彼女のお墓を訪れた際に、自分のお墓の形はこれにしようと決め、石材屋に無理を承知で生前建墓した(昭和40年代)。但しナイチンゲールはカトリックであったため、墓石の最上部に十字架が配置されているのだが、その部分だけは擬宝珠に変更したのだという話を聞いた。

天野家累代之墓 現地で販売の絵はがき:ナイチンゲール墓*右側、現地で販売されている
絵はがき(クリックで拡大)


【静脈内持続点滴注入装置(天野式持続点滴注入装置)】
 1936(S11)天野かなえ が「静脈内持続点滴注入装置」を考案・発明・報告した点滴の機器である。薬液は5%葡萄糖溶液または5%リンゲル葡萄糖溶液を用い、成人用には套管式注射針を挿入するが、乳幼児では皮膚切開法を用いて行った画期的な点滴機器である。写真は東大病院に保存されている実物。孫の天野博史氏から写真提供。

天野式持続点滴注入装置 天野式持続点滴注入装置 天野式持続点滴注入装置 天野式持続点滴注入装置

*「健康と医学の博物館」(東京大学医学部・医学部附属病院:東京都文京区本郷)にて「天野式持続点滴注入装置」の実物が展示されている。


【天野かなえ家一族】
 天野かなえの妻である天野英子〔あまの ひでこ:1908.5.8(明治41)〜1987.3.13(昭和62)〕は、広島県広島市的場町出身。旧姓は戸島。1929.4.24(S4)天野かなえと結婚し、二男を儲ける。'30.6.4 長男のあきら誕生。次男の毅も誕生するが(1947.3.20歿・同墓)生後八か月に亡くなった。なお養女の良子も迎え入れている。
 1960 あきらと和子(1936.8.24-)が結婚。二男を儲ける。長男は天野雅史(1961-)は歯医者を開業、次男は天野博史(1963-)は映像制作会社経営、一般社団法人 全日本応援協会AJO 事務局長。今回の天野家の貴重な資料は天野博史氏から拝借した。


※ご遺族である(天野あきらの次男)天野博史氏と2019年末に仕事関連で出会い、ご先祖の墓が多磨霊園にあり、代々が医学者であることをご教示いただきました。2020年初頭に博史氏から、1992(H4)天野節夫と天野あきらが「天野家」をまとめた著書『祖先をたずねて(天野家)』の貴重な資料をお借りし、本書から抜粋引用編集して上記をまとめ掲載させていただきました。


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