大分県宇佐市宇佐町出身。東邦ガス社長の都留信郎、いよ(共に同墓)の長男として生まれる。父の信郎の兄で都留家の家督を継いだ戸主の都留喜一と藤恵には子がいなかったため、伯父の喜一の養子として入籍、都留家を継ぐ。叔父の都留仙次は神学者、明治学院院長。長姉の俊子の夫は東京ガス社長を務めた都留勝利(共に同墓)であり義兄にあたる。父の信郎が名古屋ガスで働いていた兼ね合いで少年時代を名古屋で過ごした。
第八高等学校在学中、1930(S5)日本の中国政策に反対する学生運動に加わり、治安維持法違反容疑で検挙される(反帝同盟事件)。三か月後に起訴猶予で釈放されるも八高は除名された。'31 日本の大学に進学できなくなったため、父の計らいで外国留学を決意し渡米。ウィスコンシン州アップルトンのローレンスカレッジで学び、'33 ハーバード大学に転校し、経済学を学ぶ。J・A・シュンペーターに師事。集計概念の方法的検討という主題に没頭した。'35 優等で卒業。同期でただ一人大学院に進み、'36 修士号取得。'37 母いよ死去のため、一時帰国。'39 木戸幸一(18-1-3)の弟の和田小六(18-1-1-2)の長女の正子(同墓)と結婚。
ハーバード大学で助手を経て講師をつとめ、'40 博士号を取得。ハーバード大学から三種類の学位を受けている。しかし、翌年より日米開戦が勃発したため、'41 妻らと収容所に入れられた。'42.6 交換船で帰国。妻の伯父の木戸幸一が重光葵に頼み、外務省嘱託として勤務。'43 東京商科大学東亜経済研究所嘱託研究員となる。
'44 前年に東京帝国大学法学部でおこなった特別講義をもとに『米国の政治と経済政策』出版。同年、東條英機により意見が対立していた木戸に圧力をかける目的で解雇され、召集令状が出され陸軍に徴兵される。都城の部隊で三ヶ月の二等兵生活を送る。木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄に頼み込み、外務省からの陸軍に取り計らいが行われ、除隊となり、外務省勤務となった。'45 ソ連出張後、終戦を迎える。
終戦後、GHQの関係で来日した多数の米国友人と再会。東京裁判に立ち会う。'46 連合国最高司令部経済科学局調査統計課(ESS)に勤務。1946.5 鶴見俊輔(5-1-12)、鶴見和子、丸山真男(18-1-31)、渡辺慧(14-1-3)らと思想の科学研究会を結成し、雑誌「思想の科学」を創刊。
'47 片山哲内閣のもと、経済安定本部(経済企画庁)部員に任命され、総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任。第1回経済白書「経済実相報告書」を執筆した。終戦直後の経済的混乱の立て直しを行うため、日本のインフレ抑制に助力したが共産党から反対された。
'48 東京商科大学教授に就任。同時に自宅を解放し、社会人対象とした「背広ゼミ」を開始。'49.11 東京商科大学が一橋大学に改組・改称。経済研究所で研究所選出の初代所長に就任(〜'56.10)。'50 日本学術会議会員(第二基)になる。'51「所得と富」学会第1回会議の出席のため渡仏、戦後初の海外出張となる。
'56 戦後初めて渡米し、ハーバード大学客員教授をつとめる。'57 滞米中、上院の喚問を受ける。同.6 帰国。'60 再び渡米し、ハーバード大学卒業25周年記念行事に参加。またイェール大学客員教授を務めた。'61.9 帰国。'63 統計研究会に「公害研究委員会」発足。雑誌『公害研究』創刊。高度経済成長時代の公害問題を経済学者の立場から積極的に発言。'65.2 再び経済研究所長になる(〜'42,1)。'70 東京でISSC公害シンポジウム開催。
学園紛争で学長のなり手がおらず、3年間学長不在が続いていたため、一橋大学出身者以外からは初として、'72.4 一橋大学学長に就任。しかし、一橋出身者ではない風当たりが強く、'75.3 学長を退任。一橋大学名誉教授。その後、朝日新聞論説顧問に就任し10年間つとめた。
'77 第10代国際経済学連合(IEA)会長に日本人として初めて選出される。'80 コメンドトーレ勲章受章。'85 日本人として2人目のハーバード大学で名誉学位を授与される。'86 明治学院大学国際経済学部教授に就任。国際学部の創設に尽力した。'90(H2)退任。同年、日本学士院会員。
著書は『アメリカの資本主義』『アメリカ経済の発展』『日本経済の内と外』『経済の論理と現実』『日本の設計』『現代経済学』『公害の政治経済学』『経済学入門』『現代経済学の群像』『都留重人著作集』全13巻など多数刊行。2001 自伝『いくつもの岐路を回顧して−−都留重人自伝』を出版。その他、共著、編著、訳書も多数出した。
「経済学は現実に足を踏み出し、現実によって試されねばならない」との想いから、戦後日本の歴史とかかわり続け、戦後の日本経済の基礎を作った一人である。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。また公害の政治経済学を提唱。冷戦時代において平和を訴える活動にも力を尽くした。
至言「経済学者として現実問題に発言するには 泥まみれになって取り組まないといけない 経済学は傍観者ではいけない」。経済体制、公害、都市問題などを、人間復位の立場から分析し、また、経済現象を素材面と体制面とを区別しながら両者の統一を図る政治経済学を提唱した。前立腺がんのため逝去。享年93歳。如水会館で「偲ぶ会」が開かれ、多くの門下生が約500人集まり偲んだ。