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つる のぶお

都留信郎

つる のぶお

1879.3(明治12)〜 1948.2.14(昭和23)

大正・昭和期の実業家(ガス)

埋葬場所: 8区 1種 13側

 大分県宇佐市宇佐町出身。土木技師であり熱心なクリスチャンの都留音平、フシの二男として生まれる。弟の都留仙次は神学者、明治学院院長。
 1900(M33)同志社普通部卒業後、'04 大阪高等工業学校機械科卒業。'16(T5)同志社の先輩であった岡本櫻(8-1-7-3)に引き抜かれ名古屋ガスに入社。岡本櫻と共にガス事業の発展に尽力し、後に東京ガスの常務として活躍した。この間、京濱コークス東洋車輛、九州瓦斯、合同瓦斯の重役、東邦瓦斯証券社長などを歴任。
 ガス事業の先駆者・ガス博士と称された東邦ガス初代社長の岡本櫻の下で副社長として務めていたが、'35(S10)岡本櫻の逝去に伴い、'36.1 東邦瓦斯取締役2代目社長に就任。他に東邦化学工業副社長、東京瓦斯、東京化学工業、東京瓦斯証券、中央鑛業などの各取締役、興亜機械工業監査役、西部瓦斯、合同瓦斯、九州化学工業、九州耐火煉瓦、九州瓦斯、徳島瓦斯、昭和物産などの相談役をつとめた。
 支那事変、大東亜戦争によるガス需要の急増に善処した。'41 紺綬褒章。終戦により重要産業団体令が廃止され、瓦斯統制会は機能を停止し、新たに「日本瓦斯工業会」が創立された。しかし、'47.8 GHQより閉鎖機関の指定を受けて閉鎖され、同.10.15 都市ガス事業者の親睦と情報交換を目的とする任意団体「日本瓦斯協会」が創立され、初代会長に就任した。
 潰滅したガス供給設備復旧のために第一線に立って活躍したが、オーバーワークが原因の過労がたたり、急逝。享年68歳。没後、戦後の経済復興につれて都市ガス事業に関する諸問題が次々と発生したため、問題解決機能をもつ機構の確立を目的に、'52.6.7 日本瓦斯協会は「社団法人 日本ガス協会」に改組した(2011 公益法人制度関連法令が施行され現在は一般社団法人日本ガス協会)。

<大衆人事録東京篇>
<「同志社人物地図 名古屋」松井徳三>
<日本ガス協会沿革および歴代会長>
<人事興信録>


*墓石前面「都留家墓」、左面「昭和十二年七月 都留信郎 建之」、裏面は墓誌となっている。墓誌は妻の いよ(M20-S12.4.10)から刻みが始まる。いよ は三重県出身、志田貞三の二女。二人の間には1男3女を儲ける。長男は経済学者の都留重人、重人の妻は正子(H19.2.28)。長女は俊子(M44.1-H2.3.11)。俊子の夫は東京ガス社長を務めた都留勝利。全員同墓所に眠る。耶蘇子(S61.5.24・享年85)の刻みもあるが、信郎の後妻であろうか不明である。なお二女は壽子(T4.1生)、三女は澄子(T12.1生)。

*都留信郎の兄で都留家の家督を継いだ戸主の都留喜一(M5.1生)と藤恵(M12.1生)には子がいなかったため、喜一の養子として信郎の長男の重人を入籍させ、都留家を継がせた。信郎の弟の都留仙次(1884.1.20-1964.1.20)はアメリカ、イギリスの神学校、大学で学び、のちの明治学院の院長になった。なお、兄の喜一や弟の仙次は墓誌に刻みがないため同墓ではない。

*都留重人の妻は正子(H19.2.28)。正子の父は航空工学者の和田小六(18-1-1-2)で長女として生まれる。小六の兄は宮内政治家・侯爵の木戸幸一(18-1-3)。正子の弟は理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長の和田昭允。都留家は、東京・赤坂の住宅地で、和田小六の家、正子の妹の綾子の嫁ぎ先である肥後一郎の家、正子の叔母の幸子の嫁ぎ先である小説家の獅子文六(本名は岩田豊雄)の家と、同じ敷地内で住んだ。


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