代々は福岡士族。農学者の塚本道遠・家庭教育者のハマ(共に同墓)の三男として東京に生まれた。兄で長男の塚本玄門(同墓)は満州の奉天工業大学等で教えた教育者。二男の塚本赳夫(同墓)は漢方学者。
静岡高校を経て、1931(S6)東京帝国大学医学部卒業。直ちに医学部副手として同附属病院稲田内科、坂口内科に勤務、'34財団法人癌研究会附属康楽病院放射線科員兼内科員、'41同放射線科主任、'46同放射線科部長。'47学位を受け、'51サンパウロにおける世界癌学会に出席、欧米各国における放射線癌治療を視察した。この間、日本医学放射線学会評議員、同理事、財団法人癌研究会評議員、日本癌学会評議員等を歴任。'58樋口助弘(26-1-29)の逝去により空席となっていた科学技術庁放射線医学総合研究所長に就任。'70第4代国立がんセンター総長。
ガンの放射線治療の世界的な権威であり、ガン征圧に果敢に立ち向かう“臨床の鬼”とも呼ばれた。ガン宣告の是非、医のモラルとガンなど、ガンに関する様々な重大な社会的問題に取り組み、国際的に癌の研究・治療に貢献した。しかし、自らが癌で死去。享年69歳。主のな著書に、1959『放射線医学最近の進歩』(共著)、1962『死の灰』。
長女の塚本ルリ子(同墓)はピアニストであり、婿養子となった塚本哲也はノンフィクション作家である。その塚本哲也は'86『ガンと戦った昭和史 塚本憲甫と医師たち』(上下)を刊行し、第8回講談社ノンフィクション賞を受賞した。
*墓石正面「塚本家之墓」。右に「玄門先生謝恩碑」が建ち、「昭和四十九年三月 奉天工業大学同窓会」と刻む。並んで墓誌が建つ。墓誌は八代目の福岡県士族 塚本道甫(M41.5.17没・行年79才)からから刻みが始まる。塚本道遠は九代、塚本玄門は十代と刻む。ハマは「道遠 妻」と刻む。
【塚本家】
塚本家初代は黒田長政に仕えた「塚本道庵」を祖とし、塚本道遠が9代目、玄門が10代目である。
塚本道遠とハマとの間に三男三女の子供を儲ける。長男の塚本玄門(1893.10-1973.7.10)は満州の奉天工業大学などで教えた教育者であり、戦後は福岡教育大学初代学長を務めた人物。二男の塚本赳夫(1897.5.20-1977.1.17)は漢方学者。圭子(1901.1-?)は坂本家に嫁ぐ。次女の節子(1902.9-?)は一時、母のハマの小川家に里子に出された時期もある。津田栄に嫁ぐ。三女の光子(1903.9.16-?)は薬学者の三堀三郎に嫁ぐ。三男の塚本憲甫(1904.9.16-1974.6.7)はガンの放射線治療の世界的な権威。ハマは立て続けに年子を産み、光子と憲甫は誕生日が同じである。
塚本玄門の妻は久良(1983.3.20没・行年82才)。玄門の長男の千門は3才、次男の道一は満20才、三男の榮二は満19才、次女の紅子は池邊家に嫁ぐも24才と、子息は若くして亡くしている。塚本赳夫の妻は克(1991.8.22没・行年87才)、子宝には恵まれなかった。塚本憲甫の妻はテイ(1974.6.20没・行年69才:憲甫が亡くなった13日後に没す)。憲甫とテイの長女の塚本ルリ子、ピアニストとして活躍。ルリ子の夫で婿養子となった塚本哲也はジャーナリスト・ノンフィクション作家。
塚本ハマの旧姓は小川。ハマの長兄は小川晴生(はるなり)。晴生は銹三郎(旧姓は高柳)を養子としている。長姉は あい、次姉は銀。ハマは末っ子の三女。長姉の あい は旗本の田口栄太郎(精一)に嫁いだ。栄太郎の父方の祖父である田口久吾正勝の妻は滝沢馬琴の妹の菊。あい と栄太郎の間に五人の子供を産んだが、成人したのは浪(なみ:1910没)と政吉(まさよし)であった。浪は石井伊吉に嫁ぎトラ(1977没)と辰雄の二人が成人した。トラは石坂定次に嫁ぎその三女が登美。政吉と(望月)澄との間の五人の子供のうち桂、政久、政典(2002年没)の三人だけが成人した。政典と(石坂)登美との間の四人の子供の内の上の二人は戦後の混乱で死亡し、三番目が田口重久(今回情報を提供していただいた方)。
※2023.2(R5)塚本ハマの姉のあい の曾孫(母方は玄孫)にあたる田口重久様より家系図など詳細な情報をご提供いただきました。田口重久様の父である田口政典氏は1960年代から90年代にかけて都内にて多くの写真を撮影しており、重久様が「歩いて見ました東京の街」HP( http://masanori1919.web.fc2.com/ )にて変貌を遂げる東京の街の写真アルバムを公開されてます。
第314回 臨床の鬼 ガンの放射線治療の世界的な権威 塚本憲甫 お墓ツアー
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