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つかもと るりこ

塚本ルリ子

つかもと るりこ

1929.10.9(昭和4)〜 2005.9.2(平成17)

昭和期のピアニスト

埋葬場所: 12区 2種 28側

 東京出身。放射線医学者の塚本憲甫・テイ(共に同墓)の長女。祖父は農学者の塚本道遠(同墓)。祖母は家庭教育者の塚本ハマ(同墓)。伯父に教育者の塚本玄門、漢方学者の塚本赳夫(共に同墓)がいる。
 1955(S30)東京芸術大学卒業。'57武蔵野音楽大学講師に就くが、同年9月ウィーン留学のため退職。ウィーン音楽大学に入り、リヒャルト・ハウザーに師事。在学中の'59イタリアの第11回ブゾーニ国際ピアノコンクールで日本人初の5位入賞に輝く。'60ウィーン音楽大学を卒業。卒業後もウィーンに滞在し、'62〜'66ブルーノ・ザイデルホーファーを師事、ピアニストとして活動した。この間、'62オーストリア政府給費留学生としてウィーンにて国際法を勉強をしていた塚本哲也と出会い、結婚。哲也を塚本家の婿養子として迎える。後、哲也は毎日新聞記者特派員として現地に滞在した。
 '67ルリ子は一端帰国し、東京純心短期大学助教授となるが、翌'68渡独のために退職した。'68旧西ドイツのボンに滞在。哲也もボンの特派員となり、ルリ子はステファン・アスケナーを師事('68〜'73)し、ピアニストとして活動。帰国後、'75よりフェリス女学院短期大学講師となった。以後はピアノ指導者として活躍した。
 東洋英和女学院大の学長だった哲也が、2002(H14)脳出血で倒れ右半身麻痺となったが、献身的に支えた。哲也の故郷である群馬県に移る。腹腔動脈閉塞のため高崎市の病院で死去。享年75歳。葬儀・告別式は社会福祉法人新生会桜の園で営まわれ、翌月、東京都内の聖イグナチオ教会にて追悼ミサが行なわれた。喪主は夫の哲也。

<音楽家人名事典>
<毎日新聞訃報記事など>


墓所

*墓石正面「塚本家之墓」。右に「玄門先生謝恩碑」が建ち、「昭和四十九年三月 奉天工業大学同窓会」と刻む。並んで墓誌が建つ。墓誌は八代目の福岡県士族 塚本道甫(M41.5.17没・行年79才)からから刻みが始まる。塚本道遠は九代、塚本玄門は十代と刻む。道遠の妻は教育家の塚本ハマ。二人は三男三女の子供を儲けており、長男で教育者の玄門、二男で漢方学者の赳夫、三男で放射線医学者の憲甫の三男とも同墓に眠る。墓誌にルリ子は「憲甫長女 哲也妻」、哲也は「憲甫嗣子」と刻む。



第315回 がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏
塚本ルリ子 塚本哲也 お墓ツアー


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